2012年01月01日

『機』2012年1月号:日本の土を踏んで  D・ラフェリエール

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日本の土を踏んで
作家 ダニー・ラフェリエール 聞き手・訳 立花英裕

【立花】 ラフェリエールさんの日本びいきはよく知られていますが、今回はじめて日本の土を踏んだ印象はいかがですか。


【ラフェリエール】 心中複雑なところがあります。夢に見てきたものと現実に目の当たりにするものをうまくつなぎ合わせるのは、そんなに簡単ではありません。
 ただ、失望しているわけではありません。日本に来て見えてきたことは、日本の作家たちも、紫式部から村上龍に至るまで、もちろん芭蕉を忘れるわけにいきませんが、いつの時代にも、「日本」なるものを夢見てきたのだということです。
 映画監督についても、同じことが言えます。彼らも日本という神話を生み出してきた。日本をめぐる類型的なイメージがそこにも見出されます。
 日本の土を踏んで感じたのですが、日本の芸術家、いや日本人はいつでも、地震や火山の噴火など、自然災害の不安の中で生きているようですね。日本人は美しい風景の中、美しい自然の中で暮らしていますが、時にはその自然に裏切られることもあるのでしょう。
 現実の日本、私の発見した日本を言葉にするには一定の時間が必要です。消化して、自分のものにするにはね。私の中の夢見てきた日本と現実の日本が出会って一つになったとき、パーフェクトな日本が手に入るはずです。(笑)


【立花】 ラフェリエールさんの文学の根底には、ハイチをはなれざるをえなかった体験があるようですが、亡命に至った経緯をお話しいただけますか。
ラフェリエール 私は、ハイチではジャーナリストとして仕事をしていました。一九七〇年代の初めですね。フランソワ・デュヴァリエという、一代目の独裁者が死んだ直後でした。一九七一年、息子のジャン・クロード・デュヴァリエが政権につきました。だから、彼は私と同世代なのです。彼は一九五二年生まれで、私は一九五三年生まれ。私の父は亡命者、彼の父は独裁者。ジャン・クロードも独裁者で、私を国外に追い出したのです。そういう意味では、対称的な関係があります。父子のどちらも独裁者で、父子のどちらも亡命者ですから。
 私が国外に出たのは、私の親友であり、ジャーナリストとして一緒に仕事をしていた友人が……

(後略 構成・編集部)