2011年12月01日

『機』2011年12月号:「明治の精神」内村鑑三 新保祐司

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いま、なぜ内村鑑三か
 嘉永六(一八五三)年の黒船渡来以来、沸き立った日本人の精神的エネルギーは、一六〇年ほど経った今日、ほぼ消尽してしまったようである。
 その精神的エネルギーとは、思考力、道徳力をはじめ、政治力、外交力、経済的勤勉さ、社交的誠実さなどを含むものを指しているが、幕末維新期に盛り上がった精神的エネルギーは、いわゆる「明治の精神」に結実した。
 その「明治の精神」の典型的存在が、近代日本の代表的基督者、内村鑑三に他ならない。徳富蘇峰は、「内村さんのような人が明治に産出したことは明治の光だと思う」と、九十歳のときに語った。内村は、西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮上人の五人をとりあげた『代表的日本人』の「独逸語版跋」の中で「此書は、現在の余を示すものではない。これは現在基督信徒たる余自身の接木せられてゐる砧木の幹を示すものである」と書いた。
 この「砧木の幹」、「台木」とは、たんに歴史的教養を意味しているのではない。人格的なものにまで形成されたエトスとパトスの蓄積である。そして、その蓄積を回想し、自覚している歴史精神である。
 しかし、「明治の精神」は「台木」を持っているだけでは生まれない。何ものかが、「接木」されなくてはならないのである。内村鑑三の場合には、いうまでもなく「基督教」が「接木」されたのであり、福澤諭吉の場合は、「文明」が、岡倉天心の場合は「フェノロサの眼」が、中江兆民の場合はルソーが、夏目漱石の場合は、英文学が、といった具合に、それぞれが、それぞれの「台木」の個性と宿命に応じて、様々なものを「接木」したのである。
 「明治の精神」が、生き生きとしていたのは、大体、日露戦争までであろう。それ以降、この劇的な精神は、次第に薄れていく。自然主義、大正デモクラシー、マルクス主義、戦時下の日本主義と移り変わり、やがて敗戦を迎えた。
 そして、戦後の六十余年とは、精神的エネルギーを鍛えることなく、今日の空虚な日本、今年没後四一年の三島由紀夫のいわゆる「無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の」日本に堕していくだけの時間であった。
 河上徹太郎は名著『日本のアウトサイダー』の中で、内村について「日本のアウトサイダー」の「最も典型的なもの」と評した。内村という「アウトサイダー」が、実は近代日本の支柱の役割を果たしたことは、内村から影響を受けた人々の顔触れの多様性をみただけでも分かるであろう。
 司馬遼太郎の『坂の上の雲』が現在、何かと話題になるのも、そこに「明治の精神」が活写されているからに違いない。たしかに今日の日本に必要なのは、「明治の精神」の回復である。
 危機の中にある日本を立ち直らせるためには、「明治の精神」の代表的存在である内村鑑三を深く理解し、そこから精神的エネルギーを汲みとらなければならない。

内村鑑三をとりまく人々
 ■有島武郎(一八七八―一九二三)
 朝内村氏の『求安録』を読む。精読するに随て彼れの欠点は見出さる可しと雖も然かも不動の信念は人をして彼れの胸を慕はしむべきなり。(「日記」より)


■小林秀雄(一九〇二―一九八三)
 僕は乃木将軍という人は、内村鑑三などと同じ性質の、明治が生んだ一番純粋な痛烈な理想家の典型だと思っています。(「歴史と文学」より)


■河上徹太郎(一九〇二―一九八〇)
 さて今度は内村鑑三だが、私はかねがね彼を「日本のアウトサイダー」の最も典型的なものと目指していたのである。(略)
 内村鑑三に至って、私が本書で述べた意図は殆んど尽くされているのである。近代日本の精神について、キリスト教の正統について、アウトサイダーとインサイダーの関係について、すべてがあるのみならず、自らそれを力強い実践性で生きているのである。(『日本のアウトサイダー』より)


■太宰治(一九〇九―一九四八)
 内村鑑三の随筆集だけは、一週間くらゐ私の枕もとから消えずにゐた。私は、その随筆集から二三の言葉を引用しようと思つたが、だめであつた。全部を引用しなければいけないやうな気がするのだ。これは「自然。」と同じくらゐに、おそろしき本である。(「碧眼托鉢(三)」より)


■保田與重郎(一九一〇―一九八一)
 内村鑑三のかいた文章は天心の幾倍かに及んでいる。しかもこの最も美事だった明治の精神界の戦士の文章は、その強烈な破壊力の中に人柄のあたたかさを示して、目にさえあざやかである。生涯同じ一貫したものをかき残した偉人であった。(「明治の精神」より)


■福田恆存(一九一二―一九九四)
 平和はたんに戦争のない状態という消極的な意味しかもちえない。(…)それが積極的な理想にまで高まるには、個人倫理の絶対性と相ふれなければならぬのです。現代の平和論者が内村鑑三とまったく異るゆえんです。(「個人と社会」より)


■加藤周一(一九一九―二〇〇八)
 彼〔内村鑑三〕の日本における影響は、主として講演や講義や研究会を通じてであった。たとえば正宗白鳥は、彼の「月曜講演」(一八九八)にひきつけられていたし、小山内薫、志賀直哉、安倍能成、高木八尺らは、「日曜聖書講義」(一九〇二)に出席していた。(『日本文学史序説下』より)


■安岡章太郎(一九二〇―)
 私が内村鑑三に関心を持ちはじめたのは、正宗白鳥の評伝『内村鑑三』を読んでからである。(…)私は、これに触発されて内村の『余は如何にして基督信徒となりし乎』を読み、巻を措くあたわずというほど面白かった。(「内村とアメリカ」『内村鑑三全集』第三巻月報より)


■橋川文三(一九二二―一九八三)
 内村鑑三という人間は実に偉大な人間である。まず彼の存在は、現代日本人のりんかくにそのままあてはまる。簡潔にいえばそれは内村自身が書いている『代表的日本人』の中の西郷隆盛にも匹敵する。それは内村のいう「日本人のうちにて最も幅広き最も進歩的なる人」であるが、私の内村に対する尊敬はそれと同じである。(「内村鑑三先生」『内村鑑三全集』第九巻月報より)


■大岡信(一九三一―)
 内村鑑三が極めて独自だったのは、(…)国家というものの地理学的・歴史学的位置づけの中に、厳然たる「使命」の観念が介入し、それなしには国家も存立し得ないほどの緊要不可欠なものとして、日本国の世界史的使命が説かれていることである。これが、(…)一冊の地理学概説の書をして、明治の最も美しい思想的産物のひとつとさせている根本の理由だろう。(「地理の書 思想の書――『地理学考』の内村鑑三」『内村鑑三全集』第二巻月報より)(構成・編集部)


(しんぽ・ゆうじ/都留文科大学教授)