2011年12月01日

『機』2011年12月号:「人種差別撤廃」と日本外交 中馬清福

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昭和天皇「大東亜戦争の遠因」
 敗戦から七カ月たった一九四六(昭和二十一)年三―四月、昭和天皇は当時の宮内大臣・松平慶民や御用掛・寺崎英成らを相手に、極めて機微に触れた問題について次々に語った。その記録の冒頭に登場するのが「大東亜戦争の遠因」である。太平洋戦争はなぜ起きたのか、昭和天皇はこう述べている。


この原因を尋ねれば、遠く第一次世界大戦后の平和条約の内容に伏在してゐる。日本の主張した人種平等案は列国の容認する処とならず、黄白の差別感は依然残存し加州移民拒否の如きは日本国民を憤慨させるに充分なものである。又青島還附を強いられたこと亦然りである。かかる国民的憤慨を背景として一度、軍が立ち上つた時に、之を抑へることは容易な業ではない。


 昭和天皇は、日本国民に対する列強の「人種差別」が太平洋戦争の遠因、と言っているのである。第一に、第一次世界大戦の戦後処理を議したパリ講和会議で、日本の提案した「人種差別撤廃」案が列強の反対で否決されたこと、第二に、日本人は肌の色が黄色いが故に差別され、とくに米国ではカリフォルニア州を中心に排日運動が高まり、日本からの移民が拒否されたこと、を例としてあげている。戦犯訴追のうわさが飛び、退位の可否が密かに論じられていた時期の発言である。その解釈には慎重を期さねばならないが、「人種差別」と「開戦」とを直結させたこの昭和天皇の認識は簡明率直かつ重要な内容を含んでいる。それにしては、この指摘がこれまで究明し尽くされたとはいえない。
 昭和天皇が指摘した人種差別にかかわる二つの実例は、一九二〇年代前後に起きた歴史的な事実である。当時、日本では大きな問題とされたのだが、最近では話題にされることも少なくなった。しかし日本は、当時としては破天荒な人種差別撤廃構想を国際舞台に提示したのである。

「排日移民法」成立時の外交官
 執筆を進めるにあたって、日本のある外交官の生涯が重要な柱となった。人種差別と移民の問題を一貫して凝視してきた埴原正直(一八七六―一九三四年)である。若くして外務次官や駐米大使を歴任し、米国在勤が長かった彼は米国政界や外交界に多くの知人友人を持っており、根っからの日米友好論者であった。運命のいたずらか、排日移民問題で日米関係が最悪の状態になった時期、つまり米国の排日移民法が米国議会で成立する一九二四年前後、埴原は駐米大使の要職にあった。それだけにこの「事件」の全貌を最もよく知るひとりは間違いなく埴原である。
 しかし懸命の努力にもかかわらず、結果的に埴原は米国議会の一部勢力の奸計といって過言でない言動によって、身を引かざるを得ない状況に追い込まれてしまう。その後埴原はこの件についてはいっさい黙して語らず、日本政府の側の応対もなぜか明瞭さを欠いていて、そこにはなお謎が多い。その結果、日本で埴原を語る人は少なく、業績も評価も不十分のまま今日まで来た。本書(『「排日移民法」と闘った外交官』)では埴原の近親者である筆者のひとりが新たに発掘した資料を活用しながら真相に迫りたい。
 また、筆者のひとりが現職の新聞記者である以上、冒頭の昭和天皇の発言「国民的憤慨」は誰によってつくられたかを問うのは、本書の務めであると我々は思っている。昭和天皇があげた二つの事例に際して新聞はどう報道しどう主張したか、それがどう国民に受け止められたか、煽るような行為はなかったか、さらに新聞以外のメディア、総合雑誌や外交専門誌、単行本はどう論じたかの分析も欠かせない。ことに総合雑誌は、新時代の到来をめぐって百家争鳴の観があり質的にも水準の高いものが多いが、従来、あまり重視されてこなかったのは残念である。本書では在野の思想家・評論家・ジャーナリストの言動にあらためて注目し、その役割の再評価を試みたい。彼らの言動は、当時の有識者を惹きつけた「民本主義」と絡み合い、大正デモクラシー運動に大きな影響を与えた事実を軽視したくないからである。 (構成・編集部)


(ちゅうま・きよふく/信濃毎日新聞主筆)