2011年12月01日

『機』2011年12月号:日本の歴史から消えた外交官 チャオ埴原三鈴

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一九二〇年代と埴原正直
 一九二〇年代は日本近代史の中で忘れられた感がある。「戦間期」を語るとき、常に焦点が当てられるのは国際規律を無視し無謀な侵略に走った日本であり、日本が国際協調に努力した戦間期の前半は無視される。なぜであろうか。「歴史は勝者によって書かれる」という金言がここにも当てはまるのであろうか。
 しかし、歴史に断絶はありえない。一九二〇年代は、日本が国際意識に目覚め、官民ともに、国際社会への積極的参加を目指した時代であった。進歩的な政治家、外交官、そして有識者多数が、第一次大戦後急速に発展した国際外交のダイナミズムを認識し、日本も国際協調と平和へ向かって役割を果たすべく、雄々しい気迫をもって活動した。しかし、それにもかかわらず太平洋戦争は起こった。最悪の事態は突然起こった事象ではありえない。そこに至るまでには、いくつかの底流があったはずである。歴史の本質を探り、未来への糧とするためには、一九二〇年代の日本をもう一度、新鮮な目で見直す必要があるのではないか。
 本書の初期の目的は埴原正直の業績を探ることであった。しかし調査を進めるに従って、日本近代史における一九二〇年代の特殊性、重要性が明白になってきた。この時代背景の分析なしに、個人の業績を語ることはできない。そればかりか、歴史上注目されることの少ない、この時代を浮き彫りにすることは、それ自体、重要なことではないか。そう考えて、白羽の矢を立てたのが中馬清福さんである。言論界の重鎮で常に重責を抱えられる中馬さんである。恐る恐る、でもどうしても、と御参画をお願いした。
 日本では、埴原正直を知る人はほとんどない。しかし、筆者がアメリカで勉強した三年間で、埴原正直個人、及び日米関係に尽くした彼の業績がアメリカの、少なくとも識者の中では明確に記憶されていることを知った。
 埴原正直は多くの意味で、一九二〇年代の日本の気迫を代表する外交官であった。しかし、彼は日本の歴史からはほとんど消えている。一九二〇年代の歴史が忘れられたように、それは単なる自然のなりゆきであったのだろうか。それとも意図的に「抹殺」されたのであろうか。専門家の間では諸説あるが、いずれも憶測にすぎない。筆者にとっても、それは長い間の謎であった。

埴原正直と私
 埴原正直、充子夫婦には子供がなかった。妹の久和代も生涯ほとんど独身で、子はなかった。従って弟で末子の弓次郎(古川銅山副社長)の三児、義郎、卓子、和郎が埴原本家の跡取りとして育てられた。長男義郎が筆者の父である。筆者にとって正直は大伯父であるが、むしろ祖父のような感覚で育った。埴原家の祖父は正直、弓次郎、二人いることになる。
 人類学者で、日本人の起源を研究、日本人形成二重構造論で知られる埴原和郎は義郎の弟、筆者には叔父にあたる。一九八〇年代の終わり頃、和郎叔父と埴原正直について話したことがある。埴原正直が亡くなったとき、和郎はわずか七歳。「伯父貴」の思い出はほとんど無かった。しかし、学者の立場から埴原正直の正当な研究と評価がなされていい時代に来ている、と語った。そして数年前和郎叔父も亡くなった。もう残るのは私だけ。どうしても書かなければ、といういわば「責任感」を感じた。
 ブラウン大学名誉博士授与式の記念講演で、埴原正直は日本開国後、米政府が任命した初代日本特使、タウンゼント・ハリスの言葉を引用している。


もし自分の行為がいつか、日本とその未来を語る歴史に書かれるならば、それが「誉れある記述」になるよう、自分は責任を全うしたい。


 埴原正直の思いも同じであったかもしれない。埴原正直の伝記はまだ書かれたことがない。本書は、ブラウン大学の博士ガウンを、恐れ多くも遊び着にして育った孫娘の、せめてものはなむけである。(構成・編集部)


(Chow はにはら・みすず/元マッコーリー大学日本教育研究センター長)