2011年12月01日

『機』2011年12月号:ルーズベルトの責任――日米戦争はなぜ始まったか 開米潤・丸茂恭子

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誰にとっての「屈辱の日」なのか
「一九四一年一二月七日――屈辱の日としてずっと記憶に残るであろうこの日――アメリカ合衆国は日本帝国軍による突然の、そして、計画的な攻撃を受けました……」

 真珠湾攻撃の翌日、アメリカのフランクリン・D・ルーズベルト大統領が連邦議会に日本への宣戦布告を求めた演説の一節である。大統領は卑劣な奇襲を仕掛けた日本を激しく非難、その日を「屈辱の日」と呼んで憎悪を露わにした。反戦気分に包まれていた国民を”熱く”鼓舞するためだった。
 それから七十年――。真珠湾事件は日米関係史に大きく刻印されることとなったが、その核心的な部分において、現在に至るまで大きな謎が残っている。それはルーズベルトにとって日本の攻撃は本当に奇襲だったのか、ということである。もう少し掘り下げ、謎の全体像を描くと次のようになる。
 ルーズベルトとワシントンの政府首脳部は日本の「奇襲」を、その場所が真珠湾であることを含め事前に知っていながらハワイの米軍司令官にあえて知らせず、しかもその責任をハワイに押し付けた。なぜなら、日本に最初の一撃を打たせることで反戦気分の強い米世論を一気に戦争へと導くことができるからだ。むしろ日本がルーズベルトの巧妙な策略に嵌ってしまったのではないか。とすると、誰にとっての「屈辱の日」なのか。
 歴史家チャールズ・A・ビーアドもそうした立場をとったひとりだ。ビーアドは連邦議会議事録、新聞記事、公開された公文書を徹底的に調査・分析し、最終的に日米戦争が行われた責任は、ルーズベルトにもある、との結論に達した。では、ルーズベルトは戦争に至るまでどんな外交を行っていたのか。ビーアドはまず、ルーズベルト大統領の三期目が始まった一九四一年初めからその年の一二月に日本の奇襲によって、「戦争がアメリカに到来するまで」の間の外交の「外観」と「現実」を追った。「外観」とは政府の公式発表など表向きの動きであり、「現実」とはまさに事実そのものを指している。
 当時、大統領が頭を悩ませていたのは、一九四〇年の大統領選で勝つためにぶち上げた”反戦公約”だったという。一九三九年九月、ドイツのポーランド侵攻でヨーロッパでは戦争が始まり、イギリス、フランスがドイツに宣戦したが、ドイツ軍の勢いはすさまじく、短時日でヨーロッパを席巻していた。イギリスからはアメリカの参戦を求める要請が次々と送られてきたが、ルーズベルトは国民への誓約に縛られ、身動きがとれなかった。参戦するには、憲法の規定に従って連邦議会の承認を得なければならなかった。しかし、国民の戦争不介入気運は強く、戦争参加に支持は得られそうになかった。
 四一年三月、「武器貸与法」が成立。中立法の制約上、途絶えそうになっていたイギリスをはじめとする同盟国側への支援が可能になった。この辺からルーズベルトの動きが活発化してゆく。八月上旬、ルーズベルトは大西洋上でイギリスのチャーチル首相と会談した。その成果として、世界平和の理念「大西洋憲章」が発表された。このときルーズベルトは、アメリカの戦争関与について新たな約束は一切なされなかったと何度も繰り返した。だがチャーチルは後に、この会談でアメリカの参戦を確信し安堵した、と発言した。
 九月から十月にかけて、米軍艦が大西洋でドイツの潜水艦と衝突した。大統領はアメリカが攻撃されたと説明したが、実際に先に発砲したのは、アメリカの軍艦だった。結局、自国の軍艦が沈められても世論がドイツとの交戦論に傾くことはなかった。
 このころ日米関係は、日本の南部仏印進駐などで極度に緊張が高まっていた。ただ、その外観からすると、ルーズベルト政権は、両国は平和的解決を模索しているとの立場をとっていた。だが現実はどうか。四一年一一月二六日、日本の対米要求に応えるという形で、ハル国務長官が日本政府にアメリカ側の回答をまとめた覚書(「ハル・ノート」)を手渡したのだ。そこには日本の中国やインドシナからの全面撤退など、日本がとてものめそうもない厳しい条件が書かれていた。日本側はそれまでの長い間の協議が白紙に戻ったと思った。それが現実だった。
 この覚書は真珠湾が攻撃され、日米開戦が始まった後に公表された。日本に対する「最後通牒」といってもいい重要文書だが、アメリカ国民はその存在を知らされていなかった。二年後に国務省が発表した報告書によると、ハル国務長官は覚書を手渡した後の戦争内閣のメンバーに、これで日本は太平洋で複数カ所を同時攻撃する可能性がある、と指摘したという。米政府高官がすでに日本の攻撃を予見していた証拠でもある。
 当初、大西洋に関心が強かったルーズベルト。しかし、ドイツを刺激して戦争に持ち込もうとしたのが奏功せず、以後、ルーズベルトの参戦戦略は対日外交に軸を移していった。ルーズベルト政権が、国民への公約を破らずに、アメリカを、国民を、戦争に導くには、「日本を誘導してアメリカを最初に攻撃させるしかない」。日本の奇襲攻撃が現実に起こり、その戦略は的中した。「屈辱の日」の演説はまさに国民を欺く演出のファンファーレだった。

歴史家としての使命感
 『ルーズベルトの責任――日米戦争はなぜ始まったか』の原書(”PresidentRoosevelt and the Coming of the War, 1941――Appearances and Realities”)の初版が発刊されたのは一九四八(昭和二十三)年四月。第二次世界大戦が終結して三年しか経っていない。戦争を勝利に導いた指導者、FDR(ルーズベルトの愛称)はすでに亡くなっていたが、FDR崇拝は消えるどころか、ますます輝きを増していた。その英雄が国民を裏切り、アメリカを戦争に巻き込んだ張本人だったと糾弾する本書は、世論の激しい反発を受けた。例えば『フォーリン・アフェアーズ』誌の四八年一○月号。ビーアドは「『国際的な世界』の現実が分かって」おらず、「本書は事実を歪め、(ルーズベルトの)動機に不適切な評価を下した」と感情的な書評を掲載した。出版元のイェール大学出版局に対する不買運動も起こった。
 実はビーアドの作品が物議をかもしたのはこれが初めてではなかった。『合衆国憲法の経済的解釈』(一九一三年)で、憲法にはこれを制定した人々の経済的思惑も反映されている、と指摘したことが猛反発を受けた。”建国の父”とも呼ばれる憲法制定者たちと経済的利益を結びつけて考えたこと自体、神聖な存在を冒したとされたのだ。しかし、ビーアドは毅然としていた。正しいことは正しいと主張するのが歴史家としての使命だ、という信念があったからだ。
 ビーアドは日本との関係も深い。一九二二年九月、東京市長だった後藤新平に招かれて市政調査のアドバイザーとして約半年滞在しただけでなく、翌年の関東大震災の直後にも後藤の要請で急遽アメリカから駆けつけ復興への助言を続けた。このころビーアドが雑誌に寄稿した日本論には、わが国の歴史や文化に対する深い理解と好意があった。このため本書も日本贔屓が高じて書かれたという批判まで出た。だが、ビーアドは決して日本贔屓で本書を書いたわけではない。


「党派や政治家の人物の問題ではない。これはアメリカ人にとって、全世界の人々にとって、時代を超えた問題である」。


 ビーアドが本書で批判したのは、ルーズベルト大統領が”反戦公約”を撤回することなく、アメリカを自然に参戦に向かわせる手法、つまり日本に先に攻撃させるような外交施策をひそかに進めたことだった。それは、権力を制限することで政治の専制化や独裁を防止する憲法を踏みにじる行為だった。立憲民主政治と代議政治の将来を危うくするもので、建国の理念を、アメリカという国の根幹をないがしろにする行為でもあった。
 そうしたルーズベルトの秘密外交が弾劾されず、その後のアメリカ外交の指針となるならば、大統領や政府・軍高官は立憲政治の理念に口先では賛同しながら、それを独裁や専制に置き換えてしまうかもしれない。そうなれば合衆国の立憲民主政治はその歴史に幕を閉じることになりかねない。それをビーアドは深く危惧したのだが、戦後、大統領権限が強大化したアメリカは、いま、世界の至る所で危機に直面している。
 第九章の脚注にこんな一文がある。


「一二月七日午後、真珠湾で起きたアメリカにとっての大惨事のニュースを聞いて、私はすぐに戦争が単に偶然に起きたのではなく、これが一〇〇年以上にわたるアメリカ外交の結果であり、この共和国にとって新しい、危険な時代の幕開けがきたのだと信じて疑わなかった」。

(かいまい・じゅん/ジャーナリスト)
(まるも・きょうこ/明治大学 都市ガバナンス研究所研究員)