2011年09月01日

『機』2011年9月号:『帰還の謎』について 小倉和子

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ふたつの「帰還」
 本書『帰還の謎』は、二三歳のときにモントリオールに移住したラフェリエールが、三十三年ぶりにハイチに一時帰国した折に書いたという設定の自伝的小説である。その一時帰国には主にふたつの目的があった。ひとつは、若くして独裁政権に追われて半生をニューヨークで過ごし、故郷に戻ることも家族に再会することもなくあの世へ旅立った父親の魂を故郷に戻してやること。もうひとつは、幼くして父と別れたために幼年期の重要な部分が欠落したままの作家が、自己の幼年期を再構成することだった。
 作品は、第一部「ゆっくりとした出発の準備」と第二部「帰還」の二部構成になっている。冒頭で父の死を知らせる真夜中の電話を受け取った「ぼく」は、翌日、故郷を思い出しながらモントリオールの町をさまよい、ケベックの北の方まで車を走らせる。そこで対比されるのは、熱烈な願望を秘めながら氷の下でじっと太陽の愛撫を待つ北国の草木と、故郷ハイチで母と一緒に眺めた庭先の夾竹桃の花である。ラフェリエールも本書の中で言っているように、ジル・ヴィニョー(一九二八―)が「ぼくの国は、国ではなくて冬だ」と歌ったケベックのイメージは冬に要約されるのである。冬はまた、異国の地に暮らす亡命者の厳しい生活条件の暗喩にもなっている。それでもなお、ハイチの暖かな日射しを後にしてモントリオールに来たのは、かの地ではなく、この都市にこそ、願望も、生も、温もりも秘められているからではないか。「地球上の四分の三の人びとにとって、旅の形態はひとつしかなく、それは言葉も習慣も知らない国で、身分証明書ももたずに自分を取り戻す行為だ」とラフェリエールは言う。
 ニューヨークで父親の埋葬に立ち会った「ぼく」は、第二部ではハイチに帰り、故郷を外の目から眺めることになる。三十三年ぶりに帰郷した彼は、最初ホテルのバルコニーから望遠鏡で町を眺める。「よそ者」の視線がハイチの現実を冷静にとらえていく。しかし、いよいよ母に父の死を告げねばならない段になると、父に死ぬまで亡命生活の孤独を強いただけでなく、母にも同じ寂しさを味わわせ(というのも、亡命は残された者にも同じ孤独を味わわせるから)、さらには、自分にもケベック移住を強いた独裁政権への怒りが噴出する。そして、今なおその後遺症に苦しむハイチ社会への辛辣な批判が繰り広げられる。(…)

個人的な現実と、普遍的な射程
 ダニー・ラフェリエールの父親はじつは一九八四年に亡くなっている。しかしこの喪の書が刊行されたのは二〇〇九年になってからである。ということは、ラフェリエールが父親と自分自身の幼年期に別れを告げるには四半世紀を要し、自分も父親の年齢に達するのを待たなければならなかった、ということではないか。一方で、この別れの儀式は二〇〇八年に他界したエメ・セゼールにたいするものでもあったように思われる。なにしろ、セゼールの風貌はラフェリエールに自分の父親を思い起こさせるものだったのだから。『帰還の謎』はある意味で、セゼールの『帰郷ノート』の書き換えとして読むこともできる作品である。
 『帰還の謎』はきわめて写実的であると同時に叙情的な無数のスケッチから成る作品である。どこか『悪の華』の中でボードレールがパリの事物に投げかける視線にも似た、炯眼であると同時に温もりのある視線がモントリオールとハイチの現実を結晶化させていく。モントリオールの朝方のカフェの様子、高速道路をすれ違う車、ポルトープランスのスラム街で生活する貧しい人たち、その一方で、外国に行ったきり帰ってこない息子や娘を追いかけて移住してしまい、空き家になった豪邸の数々、空腹を抱えていてさえ他人のことを思いやる人びと、そして一〇〇年後に訪れても変わっていないだろうと思える風景……。この作品の魅力は、ラフェリエール自身が切り取ったきわめて個人的な現実の数々に、祖国、移住、親子関係といった普遍的な射程が結びつくことによって生み出されているように思われる。


(『帰還の謎』訳者解説より)
(おぐら・かずこ/立教大学教授)

新しい時代を告げるカタストロフィー
 日本でも連日報道されたので覚えている読者も多いにちがいないが、二〇一〇年一月一二日、ハイチは大地震に見舞われ、首都ポルトープランスが壊滅的な被害を蒙った。震災による死者は三〇万人を超えるとも言われる。以前からハイチに関心を抱いてきた訳者にとっては、なんとも衝撃的な出来事だった。十九世紀初頭に独立した誇り高き黒人共和国は、背骨を折られるような手痛い打撃を受けたのである。
 地震の強度はマグニチュード七・三だったので、備えのある日本なら、あんなことにはならなかっただろうとも言える。しかし、ハイチが直面していた困難を少しでも知っているなら、問題をそのように狭く捉えるのではなく、政治・経済のグローバル化と密接に結びついていると考えるべきだろう。今年になって、今度は日本が、東日本大震災による津波と原発事故というやはり国の屋台骨を折られかねない災害にあった。国情が異なるから被害の質も異なるが、どちらも二十一世紀に特有なカタストロフィーではないだろうか。
 当時の報道では、北半球の最貧国ハイチというような論調ばかりが目立った。国の規模に比べて文化活動が驚くほど盛んで、文学・絵画・舞踊などの水準が極めて高いことはほとんど触れられなかった。ハイチの文化的創造性がもっと紹介されてしかるべきだろう。ダニー・ラフェリエールはカナダのケベック州に在住しているが、現代ハイチを代表する文学者の一人である。

「いま・ここ」という「写生」の文学
 本書は『ハイチ震災日記』というタイトルになっているが、実際は「日記」というよりは、著者による震災の体験録である。ある文学フェスティヴァルに参加するためにハイチに到着したばかりの著者を襲った大地震到来の瞬間から始まり、目撃した人々の苦痛、焦燥、不安、恐怖が語られる。更には、フランケチエンヌやリヨネル・トルイヨのような文学者たちの行動、モントリオール市に戻ってから見るテレビの映像への違和感、再びハイチを訪れてから一緒に暮らした母親の家のことなどが描かれる。
 その文体は、速度感のある感性的な描写を基本にしつつも、次第にハイチの歴史や著者の少年時代の記憶、亡くなった友人たちの事績も交えられていき、誤解されがちなハイチの時空が内側から再構成されていく。現代世界への考察も挟まれていて、小説家らしい緻密な配慮が行き届いた作品に仕上がっている。
 ラフェリエールは日常のもつ時間の質を大事にする。「黒い手帳」を常に携帯して、見るもの聞くものを描いていく手法は、あえて一言で言えば「写生」だろう。その真剣勝負に挑む姿勢は、芭蕉を敬愛していることに通じている。
 彼は、『吾輩は日本作家である』(二〇〇八年)という意表を突くタイトルの小説を発表している。その中で、少年時代に三島由紀夫に夢中になっているとき、それがどこの国の文学かは意識しなかったと述べている。彼にとって日本文学は特定の国の特殊な文学ではなく、地球上のどこに住んでいようとも自己の時間として読むことができる普遍性をもっている。挑発的とも見えるタイトルは、類型的にハイチを捉え、エグゾチスムを求める読者への言語戦略でもある。
 言葉への信頼を通して日常生活の「いま・ここ」にこだわるラフェリエールの頑固な姿勢は、グローバル化と情報化によって場所感を喪失した二十一世紀にあって、思いがけなくも新鮮に見えるのである。

(たちばな・ひでひろ/フランス語圏文学)