2011年08月01日

『機』2011年8月号:ウクライナの発見――ポーランド文学・美術の19世紀―― 小川万海子

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夢物語の地ウクライナ
 「自由と夢物語の魅惑の地」、「御伽噺から抜け出たような光景」、「狂おしいほどに彩り豊かな国」。十九世紀ポーランドの画家たちが、この上ない賛美の言葉を献じたのは、ウクライナであった。
 かつて近世のポーランド・リトアニア国家がほとんどの領域を占めていたウクライナは、絵画の分野だけでなく、ポーランド文学においても、重要なテーマをなしている。列強による三国分割のため、国家消滅の悲運に見舞われていた十九世紀ポーランドにおいて、画家や詩人をかくも魅了したウクライナとはいかなる地であるのか。同地を扱った絵画や文学作品を読み込むことにより、ウクライナという空間を紙面に立体的に呼び起こすことに挑戦したのが本書(『ウクライナの発見 ポーランド文学・美術の19世紀 』)である。
 ポーランド語における「ウクライナ」とは、遥か遠い地、辺境地帯を原義としており、人の心にこの世の果ての風景を思い描かせる響きを持つ。また、かつての東部国境地帯として、ウクライナはポーランド人に、今や失われた土地に対するある種独特の郷愁と憧憬の念を呼び起こす。十九世紀ポーランドにおいて、ウクライナは、ポーランド民族及び文化の揺籃の地、すなわち「母なるウクライナ」として認識されていた。

もの言う自然が全てを圧倒
 ウクライナに生まれた詩人セヴェリン・ゴシチンスキ(一八〇一―七六)は、ドニエプル川とブク川に囲まれた、まさにウクライナの心臓部について、こう語っている。
 「砂地と世界で最も肥沃な耕地、最も透明度の高い水と近づきがたい沼地、朗らかな森と太古の原生林、静寂の谷と巨大な丘、人跡未踏の深い森と広大無辺のステップ、それらが自然の和解の宴に参集したかのように、この地に集まったのである。」
 欧州とアジアを隔てる境界地域・ウクライナは、相反するような性質の景物や力が一堂に会し、妙なる調和のもとに息づく境なき空間であったと私は読み取る。十九世紀ポーランドの絵画や文学作品において、それは顕著に表れている。画家ユゼフ・ヘウモンスキ(一八四九―一九一四)がウクライナの広漠たる大地を満たす神への賛歌を描いたように、詩聖ユリウシュ・スウォヴァツキ(一八〇九―四九)は、神そのものとしてのステップを歌い上げる。他方、アントニ・マルチェフスキ(一七九三―一八二六)の『マリア』の主人公であるステップを支配するのは、死である。無量無辺の豊饒の大地は、孤独と憂愁が根を張る空の世界でもあったのだ。
 様々な作品の主人公たる自然には言葉や感情が満ちている。ヤン・スタニスワフスキ(一八六〇―一九〇七)は、自然が綴る詩を造形し、ステップに咲くヒレアザミの哀切、湧き立つ雲の雄叫び、炎暑に凝固した大気の嘆きを俳句の如くに小さなキャンバスに再現している。また、文学作品には「ウクライナの風」が頻繁に登場してはステップを席巻し、ときに哀歌の真の歌い手となる。
 ユゼフ・ボフダン・ザレスキ(一八〇二―八六)はウクライナの語り部として、至上のアルカディアの姿を歌の中に永遠にとどめている。そして、ポーランド人の愛国心に、広闊な大地の生命力に溢れた呼吸を送り込んだのが、ヘウモンスキであり、詩人ヴィンツェンティ・ポル(一八〇七―七二)であった。

ウクライナの発見
 本書が取り上げた芸術家たちの祖国、十九世紀ポーランドとは、いかなる時代であったのか。十八世紀末に国家が地図上から消滅した後、一月蜂起(一八六三―六四)まで多くの武装蜂起が繰り返される。その結果、数多のポーランド人が戦いに斃れ、あるいは刑死し、あるいはシベリア流刑となり、あるいは亡命を余儀なくされた。本書に登場する芸術家の多くも蜂起に参加しており、その後、亡命生活を送っている。
 だが、この未曽有の苦難の時代において、ポーランド文化史上、最も重要なロマン主義時代が開花するのである。文学、音楽、美術などの分野で燦然と輝き、特に詩が異常なほどの力をもってあらゆる芸術を支配し、詩人たちは、民族の本質を問いながら進むべき道を示し、民を導いたのである。
 ポーランド美術におけるロマン主義の円熟期は、文学におけるロマン主義の終焉とともに訪れる。詩聖の頂点として君臨していたアダム・ミツキェヴィチ(一七九八―一八五五)没後、ポーランド人は民族を導く精神的指導者を失ってしまう。その後、それまで詩人が占めていた役割を今度は画家たちが担っていくことになる。こうして、文学においてはロマン主義から次のポジティヴィズム(実証主義)へ移行する時期に、美術におけるポーランド・ロマン主義は頂点を極めるのである。ポーランド人の歴史観を形成した画家ヤン・マテイコ(一八三八―九三)、武装蜂起などポーランドの現在進行中の真実をルポルタージュ的に描いたアルトゥル・グロットゲル(一八三七―六七)、そして、自然や農村風景を通じて、ポーランド精神の永遠性を造形したヘウモンスキらが、ポーランド人の愛国心を鼓舞し、詩聖に代わり民を導いた。
 民族主義色が強く、地理的には現ポーランド領よりもかなり東方寄りで、地方色豊かなこのロマン主義の特徴を網羅しているのが、まさにウクライナであり、ポーランド・ロマン主義の芸術家たちにより、ウクライナは発見されたと私は考える。

ポーランド美術との出会い
 我が国において、ポーランド美術は未知の世界である。私がポーランド美術と出会ったのは、今から一六年ほど前になる。外務省に入省し、ポーランド語を専門語とすることになった。それまでポーランド語に接したことはなかったが、ヴァヴェンサ(ワレサ)率いる連帯による民主化の激しいうねりに世界中が注目した頃、中学生だった私も異常な興奮をもって推移を見守った。以後、ポーランドは、一つの炎として私の中に存在していた。
 ポーランドへ旅立つ前、当時ワルシャワに赴任していた先輩職員から、ワルシャワ国立美術館の画集をもらった。そこで目を奪われたのが、ヘウモンスキの《遊糸》であった。本書において詳細に解説しているが、空と大地の無辺の広がりの中、土に汚れた裸足を露わに、黄色いターバンを巻いた牛飼いの娘が、画面中央に大きく横たわっている。はちきれんばかりの赤い頬を輝かせ、恍惚とした表情で手にしているのが「遊糸」、すなわち我が国では「雪迎え」ともよばれる、小春日和に舞うくもの糸である。
 画面から漂う郷愁感と素朴な温かさに魅了され、ワルシャワに到着して、いの一番に国立美術館を訪ねた。そこで、《遊糸》をはじめとするポーランド美術を眼前にしたとき、まさに宝箱を開けたような感慨であった。
 その後十年を経て外務省を退職し、東京外国語大学大学院において、ポーランド文学を中心に学ぶ。十九世紀の美術と文学を関連させていくうちに到達したテーマが「ウクライナ」だった。本書は、ポーランドの画家と詩人の造形や言葉から掬い取ったイメージによる、私の「ウクライナ体験」の物語でもあるが、それは実に稀有な発見の旅であった。

ポーランド芸術とウクライナの大地の声を体感する一助に
 北をバルト海に臨むポーランドは、琥珀の産地である。琥珀はポーランドそのものだと思う。琥珀は内に地球の歴史を閉ざし、かの国の根幹をなすのは悲壮を極める歴史だ。その芸術も煌く華麗さには欠けるかもしれないが、琥珀のように深い味わいを秘めている。本書は、約六十点にのぼるポーランド絵画を掲載し、文学作品も多数扱っている。本書が、ポーランド美術と文学の光に触れる一助になればと願ってやまない。そして、ウクライナはチェルノブイリ原発事故から今年で二十五年を迎えるが、ウクライナという豊饒の大地そのものが発する声、呼吸、ものの力を体感していただければと思うのである。

(おがわ・まみこ/元外務省職員)