2011年06月01日

『機』2011年6月号:「二回半」読む 橋本五郎

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赤線を引きながら
 読売新聞の読書委員として、毎週日曜日の読書欄で書評を始めたのは、一九九八年のことである。以来、学術書から小説まで一七〇冊余りの本を新聞紙上で批評してきた。
 書評は感想文とは違う。読者からみれば、批評者はされる側と同一レベルか、その上であるべきだとの想定で読むに違いない。しかし、自らを振り返れば、専門的知識でも見識でも数段すぐれた著者に挑んでいることの方が多い。ここに書評の苦しさがある。
 これまでの書評でもっとも精根使い果たしたのは山崎正和氏の『歴史の真実と政治の正義』(中央公論新社)だった。なにしろ教養の深さにおいても内容の鋭さにおいても、とても太刀打ちできる相手ではない。だからといって逃げるわけにはいかない。二十世紀論として逸すべからざる本だったからである。
 そんなとき自分にできることは何かとなれば、徹底して読む以外にはない。この本に限らないが、書評する本は必ず「二回半」は読むことにしている。赤鉛筆を持って、まず通読する。次に赤線を引いたところを抜き書きしながら、もう一度読む。そして抜き書きしたメモを読みながら構想を練る。
 著者からのメッセージを正確に受け止めることがすべての前提だからだ。こちらの頭脳の問題はもちろんあるが、二回読んでもわからないものは、少なくとも新聞で取り上げるべき作品だとは思わない。著者の訴えるものを?んだあとはこちらの土俵だ。思いの丈をぶっつけることにしている。

人生にとってかけがえのないもの
 私が取り上げたいと思う基準は決まっている。自分が感動したもの、是非とも読者に読んでほしいと思うもの、ということに尽きる。「けなす書評」も成り立つだろう。しかし、私はその道は取らない。読者が買って損はしなかったと思ってほしいからである。
 若手の学者や評論家による、ひたむきで真摯な力作にも目配りしたいと心掛けている。山田央子『明治政党論史』(創文社)や櫻田淳『国家への意志』(中央公論新社)、細谷雄一『戦後国際秩序とイギリス外交』(創文社)などはその範疇に入る。おこがましい言い方かもしれないが、多くの人の耳目に触れることで、さらに羽ばたいてほしいと思うのである。
 書評の楽しみは、自分の思いをそっと忍ばせることができることだ。「批評とは他人をダシに自らを語ることである」と言ったのは確か小林秀雄だが、書評でも同じだと思う。NHKのラジオ深夜便をもとにした遠藤ふき子さん編集の『母を語る』(NHK出版)の書評は、井伏鱒二の「おふくろ」からの引用を書き出しに使った。
 「ますじ。お前、東京で小説を書いとるさうなが、何を見て書いとるんか。字引も引かねばならんの。字を間違はんやうに書かんといけんが。字を間違ったら、さっぱりぢやの」
 これに勝る「母の言葉」はあるだろうか、と心に刻みつけてきた。引用したいために書評したと言われても仕方がないくらいだ。
 私にとって書評は「支え」でもある。二〇〇〇年十二月、胃の全摘出手術を受けた。胃癌の宣告を受け、主治医に五年後に生きている確率が五割から七割と言われ、病院で眠れぬ日が続いた。万一に備え、やり残したものがあっては悔いが残ると思い、手術までの三日間に三冊の書評に取り掛かった。
 一日に一冊ずつ、日中に読み、夜になってまとめた。一心不乱に書き上げることで、訪れるかもしれない死の恐怖から免れ、穏やかに手術のときを迎えることができた。これからも書評することは自分の人生にとってかけがえのないものであり続けるだろう。


(後略 構成・編集部)
(はしもと・ごろう/読売新聞特別編集委員)