2011年06月01日

『機』2011年6月号:パラダイム転換と一つの歴史学派の形成 L・ヴァランシ

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フェーヴルとブロック
 一九四六年、「風に向かって。新『アナール』宣言」〔四―八頁〕と題する緒言でリュシアン・フェーヴルは『アナール』の改名を宣するとともに、創刊以来、一七年間に及ぶ連綿たる流れをあくまで維持してゆく意向を明らかにしている。たしかに表題は最初の『社会経済史年報』から『社会史年報』に、そして今や『年報――経済・社会・文明』へと変わった。しかし、この雑誌は、必ずしも全員が歴史家ばかりとは限らない寄稿者たちを再び率い、他の歴史雑誌と一線を画する特色を何ら失うことなく、同じプログラム、同じスタイルを守りつづける。
 企画の連続性に力を込めるリュシアン・フェーヴルの傍らには、まるでマルク・ブロックがいるかのようである。雑誌の創始者として両人の名が表紙を飾り、装い新たな再出発を告げる緒言はリュシアン・フェーヴル一人の考えを書いたものでありながら、マルク・ブロックとの連署の一人称複数形で語られている。編集者一同の署名がある一九四七年の緒言『一年後』〔『一九四七年の「アナール」』〕にも、やはりマルク・ブロックの名が見える。
 言うまでもなく、リュシアン・フェーヴルはマルク・ブロックの遺言執行人を自ら買って出たのであり、その知的遺産の管理にいささかの余念もない。農耕地の歴史、貨幣の歴史、信仰の歴史、社会組織の歴史など、マルク・ブロックが開拓した分野のいずれもが、リュシアン・フェーヴルの意を通じて、戦前世代に代わる若い歴史家たちの手で再び誌上に登場してくる。その頻度たるや、フェーヴル自身の懸案のテーマ――たとえば、H‐J・マルタンと共同で着手していた書物と印刷物の歴史――をも上回り、「知的道具」・感性・心性の歴史にいたっては、本書が扱う一〇年間、紙幅の確保すら覚束ない有様であった。

フェーブルの反政治的信念
 雑誌の連続性を強調するリュシアン・フェーヴルはプログラムも継続させる。周知の事実だが、『アナール』創始者は政治的・外交的・制度的・叙述的な出来事記述の歴史に対して常々敵意を抱き、それらの形容語を纏った伝統的な歴史学に攻撃を浴びせていた。戦争とは軍事的・外交的・政治的な出来事の累積であると同時に、とりわけ個々の人間の心を傷つける出来事の積み重ねである。そのような戦争が終結した後でも、リュシアン・フェーヴルの反政治的な信念は少しも揺るがなかった。戦争の悲惨さは雑誌の編集委員と寄稿者一同にも直に及んだ。一般国民と何ら変わらず、彼らもまた敗北・集団避難・離散の憂き目に遭い、ユダヤ人、フリーメイソン、レジスタントであれば占領軍とそれに協力するヴィシー政権支持派に逮捕される恐れさえあった。マルク・ブロックが命を落せば、一九四四年、彼の教え子アンドレ・ドゥレアージュも同じく処刑され、僚友モーリス・アルヴァクスもまたブッヒェンヴァルト強制収容所で死を迎える。一九三〇年代初めにリュシアン・フェーヴルの協力者であり女友だちでもあったリュシー・ヴァルガ(一九〇四―四一年)は、非占領地帯のある村で難を逃れたと思った矢先、医療の不備で三十六歳にして不帰の人となった。一九三九年から『アナール』編集委員会のメンバーであったアンドレ・ヴァラニャックは一九四一年の時点でも出版活動を継続しており、同年、ヴィシー政府の求めに応じて、地方分権思想の宣伝普及のためにトゥールーズ県庁に派遣されているが、それとは逆に、ジョルジュ・フリードマンが同じ都市に赴いたのはレジスタンスに身を投じるためであった。ブローデルは長期拘留を余儀なくされ、アンリ・ブランシュヴィックもピエール・ヴィラールもブローデルと同じリューベック収容所で捕虜の身に甘んじた。しかし、こうした出来事も、伝統的な観点に立つ歴史学――国家と政治家と対立と戦争の歴史、国際関係の歴史、出来事叙述の歴史――に対するリュシアン・フェーヴルと『アナール』の歴史家たちの敵意をいささかも損ないはしなかったのである。
 ところでこれと同時並行的に、まず何よりも現在に関心を払うべきだと彼は主張している。実際、ごく最近の歴史や進行中の歴史は『アナール』寄稿者たちの注視の的になっていた。第二次世界大戦の衝撃から、アンリ・ブランシュヴィックは数回にわたってドイツを論じ、第一次大戦の経験を踏まえて、この国の復興はフランス人にとって恩恵にこそなれ、災いにはなるまいと弁護している。戦後の産業復興を見据えて、米国とソ連の事例調査にも関心が集まる。近い過去についての研究や回想録が出版されると、直ちに書評が書かれ、フェーヴル自身も適宜執筆した。

ブローデル的パラダイムの導入
 歴史を手がかりに世界を理解可能にしようという野望があるからこそ、人間科学との協調関係が不可欠になってくる。歴史家が現在に働きかけるにあたっては、現在を扱う人間科学の加勢が好適なのである。人間科学には過去の解読に適した分析道具が確実に存在するからだが、しかし、それよりはるかに重要なのは、過去を理解した上で来たるべき世界の出現を期す企図の方である。したがって、学問の頂点に立つ歴史学は、地理学との特別な結びつきを継続し、社会学との連携を強め、経済学と親密な関係を保つことになる。戦後の『アナール』を総括する表現は社会経済史だが、「社会」という語は際限なく拡大解釈ができる。これを明確に表しているのが、雑誌の新しい表題『年報――経済・社会・文明』である。
 「アナールは続く」、一九四六年にリュシアン・フェーヴルはそう宣言していた。一九五七年、編集責任者就任の際、ブローデルも「アナールは続く」と言明する。彼はリュシアン・フェーヴルへの愛着を「子としての」と形容し、親孝行な跡継ぎたるべく、コレージュ・ド・フランス教授と高等研究院第六部門委員長の職を継承し、雑誌の表題を一字一句違わずにそのまま用いて企図の連続性を示した。このことに異論はなかろう。しかし、その言明に先立って、『アナール』にブローデル的パラダイムが持ち込まれていることをしかと見ておかなければならない。フェーヴルが亡くなる以前に、すでに彼の政治的・国家主義的な立場は敬遠されていたのである。
 フェルナン・ブローデルの運営時代に雑誌に関与した歴史家たちなら尚更である。社会参加に消極的な歴史学、いわば非政治的な歴史学は、それでもやはり世界の理解可能化に精魂を傾けるが、世界に働きかけようという意図は持たない。
 この姿勢は当時の支配的なパラダイムと無関係ではない。「観測の場所として長期持続を選ぶこと、それは避難所として父なる神そのものの立場を選ぶことであった」とフェルナン・ブローデルは『個人的証言』〔邦題『私の歴史家修業』『ブローデル歴史集成 III 日常の歴史』序論〕の中で書いている。避難所とは何か。避けるべき危険とは何なのか。おそらく喧騒渦巻く現在のことであろう。リュシアン・フェーヴルは逆に、その現在に対して働きかけることが可能だと信じていたのだが。
 長期持続、世界規模という言葉が巨視的歴史学の輪郭を描き出す。経済は人間・生産物・行為の交換という大きな広がりを持った動きとして捉えられる。「商業という車輪」だけで歴史は動き、人類の冒険の基底には物質文明がある。急激な変化の歴史か、あるいは「どちらかといえば寡黙で、たしかに控え目な、当事者にも証人にもほとんど思いもよらない、深く潜んでいる」歴史か、この二者択一を前にしてブローデルは後者を選び取り、『アナール』に参集する若い研究者たちをそこへ誘導する。今や歴史家の対象――および語彙――は、資本、商品、価格、交通、道路、変動局面、危機である。一九五〇年初頭、新しい歴史学の中心地である高等研究院第六部門から三つの叢書〈港・道路・交通〉、〈実業と実業家〉、〈貨幣・価格・変動局面〉が発刊された。これらが明確に打ち出されたことは、歴史学の仕事で何が重要な部門なのかをはっきりと示していよう。

(構成・編集部)
(Lucette Valensi /イスラム研究)
(平澤勝行・訳)
*全文は、叢書『アナール 1929-2010』II 1946-1957に収録。