2011年05月01日

『機』2011年5月号:文化としての「環境日本学」 原 剛

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一つの時代の終わり
 地震・津波による三陸沿岸の壊滅と原発爆発の光景は、一つの時代の終わりを私たちに示唆しているように思える。チェルノブイリ原発事故を取材した私には、福島原発の陥った制御困難な危機が既視感を呼び起こす。
 「一つの時代の終わり」とは、その質を問うことなく、とにかく需要があるから量を供給することを経済成長の要因とし、それが一歩間違えれば砂上の楼閣であることを直観しつつ、際限のない負のスパイラルをたどってしまった「demand pull economy」時代の終焉、という意味である。
 四一年前の三月、日本の社会が大阪万博に歓声を挙げているとき、既に破局一歩手前の産業公害の現場を毎日新聞社会部記者の私は連日取材していた。万葉歌人の秀歌を生んだ田子の浦をヘドロで埋め、富士山を煤煙のかなたに追いやって顧みない日本人の、内面性の崩壊を私は強く意識した。
 早稲田環境塾が〈文化としての「環境日本学」〉の創成を塾生と共に模索し、現場で実践者に学ぼうとしているのも、このような体験知の帰結に他ならない。
 第四期塾の高畠合宿テキストの標題を「複合汚染から三八年、自治の精神と有機無農薬農法」とし、さらに内容を充実させて藤原書店から本書(『高畠学』)を出版したのも、顧みれば「一つの時代の終わり」を証し、それに「代わりうる光明」を高畠という現場から見出そうとする試みである。
 福島・宮城県境に近い高畠にも、奥羽山脈を越えて多数の原発被災者が押し寄せている。原発の爆発は「demand pull economy」五〇年の営みが破綻し、人々の意識に根源的な変化が起きる、あるいは日本人が、自らの内面にその可能性を潜在させていることに気づかざるを得ない社会状況に追い込まれた象徴といえよう。
 ちなみに「複合汚染から三八年」とは、一九七四年に作家有吉佐和子が高畠取材などを経て朝日新聞の小説欄に「複合汚染」を連載してから三八年の意味である。農薬と化学肥料の多投による農地、農作物の複合汚染もまた「demand pull economy」の帰結であった。

「環境」とは何か
 第一に、水や土、空気即ち自然環境が清浄であること(人間環境)
 第二に、物を生産し、消費し、社会集団として暮らしていくことが出来る、いわば人間環境が持続され、再生産されなくてはならない(人間環境)
 第三に、自然環境と人間環境を土台に築かれた、その地域独自の文化が保たれていなくてはならない(文化環境)
 大震災と原発爆発は被災者から環境のすべてを奪い去った。再生への道筋とは、自然、人間、文化からなる統合された地域環境保護理念の確立と実践への道に他ならない。
 顧みて日本、米国、欧州の間には環境問題への取り組み方に本質的な差異があることに気付く。アメリカは環境問題を経済に随伴的なもの、つまり市場経済の枠内で解決できる問題であるととらえてきた。大気汚染対策として、世界初の亜硫酸ガスの排出権取引市場を創設したことが一例である。
 一方ヨーロッパは概して環境破壊を文化に係わる問題として扱ってきた。経済合理性を、環境問題へ取り組む際の唯一の価値基準とはせずに問題に対処してきた。
 例えば生産調整と水質、土壌汚染対策を結び合わせ、化学肥料や農薬を減らし、伝統的な田園の景観を守る農法に減産補償をするEUの共通農業環境政策を挙げることが出来る。
 日本はアメリカの経済合理性(環境維持のコスト分担)、ヨーロッパの文化性(かけがえのない価値を損なわない)のいずれからでもなく、その場しのぎの、いわば対症療法(事件対応)をもって問題に対してきた。
 その経緯から日本はいま環境問題を経済の側から構造的に解決するために、市場経済の合理性への既成観念の変革をもって臨むことを余儀なくされている。さらに環境思想、倫理感が国民の間に高まるにつれ、「文化」としての視点から環境への取り組みを強めてきているように思える。
 大震災と原発爆発を体験した今こそ、日本社会の豊富で実践的な環境保護への知的財産、技術的成果を再評価し、自然、人間、文化環境の三方向からその価値の体系化を試みる「環境日本学」を創造し、国際化時代に環境立国を考える日本人の自己確認(アイデンティティ)の礎とすべきである。
 この目的のために、早稲田環境塾は五か所に調査・研究の現場を設定している。
 一次産業由来の「環境と持続可能な発展」の原型を地域社会に求め、山形県高畠町和田、首都圏の水源、群馬県みなかみ町藤原の茅の原旧入会地、二次産業に関連して熊本県水俣市、日本の伝統文化の基層社会としての京都の神仏の聖域、そして政治、経済、行政の中枢地としての東京である。

なぜ高畠か――文化としての「環境日本学」――
 一九七三年星寛治に指導され、全員二〇代の三八名の上層農民たちが始めた有機無農薬農法が地域社会にもたらした自然・人間・文化環境へのめざましい変革の影響力は、計量化し、市場での貨幣による交換価値で計ろうとする行政と経済学が定義する「農の多面的機能」の域をはるかに凌駕し機能し続けている。
 一九七三年から二〇一〇年の間に及ぶ〈環境〉と〈持続可能な発展〉へのありうべき道筋の探索努力の過程で、高畠での試みは時代の潮流を反映した普遍的な方向を指向するものであり、〈環境と持続可能な発展〉の原型形成の手がかりになるのでは、と私たちは考えている。
 高畠における〈文化としての「環境日本学」〉の可能性を示唆している要素の一端を風土、景観、風景との関連で概観するならば、それは星寛治がインタビューで答えている「自然に対するおそれから発した尊敬と崇拝の中で、ヤオヨロズの神々が共存しているやわらかさ、相手を認め合う包容力」によるものではないだろうか。
 このような感性・理念は、星たちが実践してきた有機無農薬農法によって培われた体験知、直観ともいうべきものである。国家神道や人神崇拝の理念とは異なる、揺るぎない宇宙観に根差した自然科学、人文科学、社会科学に基づく「共生」の思想である。それは星が詩神と仰ぐ宮沢賢治の宇宙観にも通じているように思える。(賢治は法華経の信徒であった)
 農村地域が担う役割として「伝統文化の保存の場」が挙げられている。
 「文化とは、『自然』―『人間』―『社会』の象徴化形態のことである。それは、『自然』―『人間』の連関と『人間』―『人間』の連関とを、その二重性において象徴化した諸形態である。したがって、例えば『物質的文明』は前者の連関を基盤として成立し、『精神的文化』は主要には後者の連関のうちから生成してくる、と言うこともできよう。」(『社会学事典』弘文堂、一九九六年、七八〇頁)
 日本学術会議は農林大臣からの諮問「地球環境・人間生活に関わる農業及び森林の多面的な機能の評価について」に対し、以下のように答申している。
 「里山を背景とした『日本的な原風景の保全』は国民に歴史、文化の重みと誇りを喚起する意味でも重要である。それは(二次的な・新たな自然)景観形成機能とはまた異なった、日本の心、魂の保全ともいえるものである。棚田・段々畑に刻まれた先祖の築いた歴史・文化は、観るものに感動を与えずにはおかないものである。」
 「新しい自然景観の形成」は保全と同時に新しい文化の創造という意味においてまた重要な機能である。
 点から面に拡がり、「たかはた食と農のまちづくり条例」の制定(二〇〇八年九月)に到る展開を遂げてきた有機無(減)農薬農法が生みだした自然生態系(自然環境)、人間の営み(人間環境)が、生命に満ちた「新しい自然景観の形成」(新しい文化の創造)に到ったといえよう。
 早稲田環境塾が高畠町の、とり分け和田地区に「日本文化としての地域環境」の原型(prototype)を認識するゆえんである。
 すなわち高畠とはあまねく「日本」の地域社会たりうるし、逆もまた真なり、と言えるのではないだろうか。高畠は大震災と原発爆発の被災地の間近かに連なる。地域社会の復興に向かう東北の地に在って、あり得べき地域社会の、ひとつの確かな原型として、高畠モデルの可能性を、これからの社会動態にひきつけて実証していきたい。

(はら・たけし/早稲田環境塾塾長)