2011年04月01日

『機』2011年4月号:孤独――作家 林芙美子

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毀誉褒貶のなかで、林芙美子はひたすらに書き続けた。書くことが生きること――急逝から六〇年、作家・林芙美子をもっともよく知る著者が、これまで明かされなかった芙美子の実像に迫る長期連載。


 平林たい子が林芙美子の急逝を知らされたのは、一九五一(昭和二六)年六月二八日未明だった。新聞社からの電話で叩き起こされてからしばらくたって、川端康成名の電報が届いた。信じられないという気持ちと同時に訳のわからない怒りが込みあげていた。とにかく駆けつけなくては、と昨夜、脱ぎ捨てたままの着物を着直した。中野区沼袋の自宅から下落合の芙美子の家まで、車で一五分ほどの距離である。
 数十メートルにわたって張り廻らされた大谷石の塀の上に、豊かな樹木の陰が広がっている。林邸はまだ静まり返っていた。「東西南北の風が吹き抜ける家」という芙美子の希望どおりに設計された数寄屋造りの邸宅に、平林はくるたびに感心させられていた。大正末から昭和の初めにかけて、男と別れた芙美子が本郷追分町の平林の下宿に転がり込んできたことがあった。そのまましばらく二人で、少女小説を書きながら、カフェの女給をして暮した。魚屋の二階の三畳間だった。林邸はその貧しかった頃を想い起こさせた。芙美子二三歳、平林二一歳だった。
 芙美子は書斎に横たわっていた。娘のように可愛がっていた秘書の大泉渕が泣きじゃくりながら芙美子の髪を撫で、川端康成は腕組をしたまま目を閉じている。隣の部屋では夫の〔手塚〕緑敏が電話の対応に追われていた。母親のキクは入浴中だった。いつも身ぎれいに整えているキクだったが、娘の急死の朝までも、と平林は驚かされた。九州から出てきて間もない、姪の福江が養子の泰たいに付き添っていた。この春、学習院の附属幼稚園から初等科に進んだ泰が、「おかあちゃま、まだ起きないの。死んだの」と平林に甘えてきた。「心臓麻痺だそうだ」と、目を閉じたまま川端が言った。(「第一章 葬儀」より。以下略)

(おがた・あきこ/近代日本文学研究家)
*全文は『環』45号に掲載