2011年03月01日

『機』2011年3月号:「勤勉革命」による江戸時代 速水 融

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江戸時代像の変容
 江戸時代に関するイメージは、ひと昔前まで、一口で言えば暗いものだった。いわく搾取と貧困、鎖国、義理人情、そういった言葉がこの時代を表わす常套句であった。約三十年前に書いた「歴史のなかの江戸時代」(本書第1章)でも詳しく述べたように、当時の教科書では、江戸時代は無前提的に「封建社会」として描かれ、封建社会なるがゆえに、身分制社会であり、自由を奪われた農民は土地に縛り付けられ、商人は儒教的道徳から士農工商の最下位に位置した、とされていた。
 この度、改めて刊行する本書『歴史のなかの江戸時代』は、一九七六年一月から雑誌『諸君!』に連載され、翌年、単行本として刊行された東洋経済新報社版に、その後なされた対談・座談のいくつかを加えたものであるが、こうした対談・座談シリーズを企画したそもそもの狙いは、多くの方々の意見を伺いながら、上に述べたような江戸時代に関する通念を問い直すことにあった。
 この試みに対し、中には賛意を表して下さった方も居られたが、風当りも強かったことも事実である。筆者自身、いささか肩に力が入り過ぎ、攻撃的な表現が強くなってしまった。しかし、当時考えていた江戸時代像は、現在でもぶれていない。他方で、現在の江戸時代に対する世論は、大きく変わった。一種の「江戸ブーム」とも言える風潮の中で、賛美に近い評価さえ出てきている。筆者から見れば、いささか行き過ぎではないか、とさえ思われる評価もあり、今度は江戸時代は決してバラ色一色ではなく、少なからず暗黒面を有する社会であった、と述べざるを得ないような状況になっている。例えば、歴史人口学の立場から言えば、江戸時代の後進性として、とくに都市における公衆衛生の欠如が挙げられる。「天保の大飢饉」なども、実は飢饉以上に感染症による被害がかなり大きかったのであり、平均寿命も、実は農村よりも都市の方が短かったのである。
 「江戸暗黒説」から「江戸礼賛説」へという江戸時代像の変容には、この三十数年間に生じた内外の社会的変動も関係しているのだろう。七〇年代末の社会主義国家中国における改革開放政策の開始、八〇年代の日本の高度経済成長とバブル崩壊、八九年のベルリンの壁崩壊とそれに続くソ連邦解体は誰もが予想しなかった大きな出来事だった。こういった過程のなかで、江戸時代暗黒説は次第に影を薄くしていったのである。


「近世」とは何か――pre-modern かearly modern か――
 通常、江戸時代は、日本歴史の時代区分の上では、「近世」と呼ばれる。ヨーロッパ史の時代区分が、「古代」「中世」「近代」と三区分であるのに、日本は「中世」と「近代」の間に「近世」が入る四区分である。江戸時代を「近世」と呼ぶようになったのは、誰によってか、いつ頃からかについては、筆者は確かめていない。だからどこの誰ともいえないのであるが、言い得て妙である、と思っている。ただし、これを欧州語で示す時、若干混乱が生ずる。つまり、pre-modern とすべきか、early modern とすべきか、である。後者であれば、early の次にlater が、そしてpost さえ用意されていて、三つのmodern times の経過に変質と連続を読み取ることができる。前者だと、pre は前置されたもので、それ自身modern ではない。したがって、どちらの表現をとるかは、その言葉を使う者の歴史観を示すことになりかねない。
 かく言う筆者は、実は、この二つを厳密に区別することなく使ってきた。というのも、政治史に基づいて、慶長八(一六〇三)年の朝廷による家康の征夷大将軍任命から、慶應四(一八六八)年の江戸開城までの二六五年間は「江戸時代」と呼ばれるが、歴史の連続・非連続を考える際には適当ではない。社会は、なにも政治体制だけで決まるものではないからである。「江戸時代」を、始めから終わりまで不動だった時代としてではなく、むしろ「変動の時代」と捉え、またその変動のあり方にも大きな地域差がある以上、「江戸時代」を「地域的多様性」において捉えるのが筆者の立場である。
 その場合、この時期を「近世」と呼ぶのは的確だと思われる。例えば、「戦国時代の内に、近世的要因が生まれた」とか、「明治維新は、かなり劇的な変動だったけれども、近世的な生活慣習まで変わったわけではなかった」といった表現が可能になるからだ。これによって、「江戸」と「明治(近代)」の連続性と断絶性という両面を示すことができる。
 このような見方から、世界各国との比較史研究も可能になってくる。たとえば、フランスの旧制度期と江戸時代との比較は、とくに意味のある仕事となるだろう。かってフランスの歴史家、エマニュエル・ル=ロワ=ラデュリ教授との対談においても、そのことを確認し合うことができた(「新しい歴史がめざす『統合』とは」中央公論、一一七八号、一九八四年、速水編『歴史学との出会い』慶應義塾大学出版会、二〇一〇年収録)。二つの社会とも「身分制」が基礎にあるが、通常、これは「封建制」と読み替えられてきた。しかし、その内部で進んだ近代への準備、政治面における官僚制、経済面における市場経済の展開、そしてその爛熟した文化こそ、実はその後の「近代化」を準備したのである。(略)

勤勉革命と産業革命
 同じころ、ユーラシア大陸の西端では、産業上の大変革が起きていた。産業革命(Industrial Revolution)である。この変革は、エネルギー源を石炭に求め、大規模な機械を用いて大量生産を可能にした工場制工業の展開であるが、何と言っても蒸気機関の発明・利用がその核心である。一八世紀前半、イングランドで起った織布機械の改良は、大量の(綿)糸の需要を引き起こし、織物業と紡績業が相互に作用しながら発展し、エネルギー源として石炭が用いられるようになり、生産工程における工場制度を生み出した。一九世紀の前半には、生産原料や燃料を運搬するため、鉄道や蒸気船が出現し、それらは西ヨーロッパ諸国に伝播し、世界は大きく変動したのである。
 江戸時代の日本には、国内的にはこのような変化の必要性は全くなかった。だからこそ、幕末開港以後、滔々と流れ込んできた産業革命の成果や欧米の事物に、驚くほかなかった。明治になって導入されたもの――鉄道、馬車、道路、電信・電話、蒸気機関とそれをエネルギー源に用いる諸産業、高等教育機関、病院・衛生設備、内閣制度、議会、憲法などの法制、司法制度――を考えると、近代社会の形成にとって、何が欠けていたのかが分かる。この面だけを見れば、江戸時代と明治以降の違いを大きく考えたくなるのも、ある意味で当然である。
 だが、江戸期に「経済社会」化が進んでいたことも明白な事実である。では何によってこれはもたらされたのか。「産業革命(Industrial Revolution)」ではなく、「勤勉革命(IndustriousRevolution)」によって江戸期の発展は生じた、というのが筆者の主張である。
 近世において農業の労働のあり方は大きく変容した。徐々に形成されていった市場に適合するなかで、それまでの隷属的性格を持った労働が家族労働(小農化)へと変わっていった。筆者の観察では、信州の諏訪地方では、城下町を中心として同心円状に、一年にほぼ二〇〇メートルの速さで小農化が進み、一八世紀の後半には全領域が小農化した。農業と市場が結びつくことで、農産物の利益を農民自らが手にできるようになり、市場販売を目的とする生産が世帯単位で自発的になされるようになったのである。これが、すなわち「勤勉革命」である。とくにこの「革命」は、耕地拡大が限界に達し、生産量増大が、もっぱら投下労働量の増大によってもたらされるようになった時期(地域ごとに違いはあるが、ほぼ一八世紀)により深化を遂げることになる。この「勤勉」が、江戸時代を通じて農村から都市へも広がり、とりわけ明治維新以降に、経済発展と工業化を支える労働倫理となった。ただし、この「勤勉」さは、一定の社会経済的条件の下で生じたものだとも言え、決して永遠不変の日本人の「国民性」とは言えない。それは現在失われつつあるとさえ言い得る、ここ三〇〇―四〇〇年間の特徴なのである。(略)
 現在、われわれ日本人は、確固たる未来像を描き得ず、混迷のなかにいる。本書は、こういった状況に対し、直接の回答を与えるものではないが、江戸時代を見つめ直すことにより、日本の経験や、日本社会が持っていたものは何だったのかを今一度問うてみようとする試みである。

(構成・編集部)
(はやみ・あきら/歴史人口学)