2011年02月01日

『機』2011年2月号:わたしの詩歴 辻井 喬

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詩は絶望から出発した
 はじめ詩を書いていた。詩は絶望から出発した。学生運動に失敗し肺結核にかかり、詩と音楽に関係している二、三の友人を除いて同志は一人もいなくなった。
 「十年経って生命があったら神様に感謝しなさい」と医者に言われ、小康状態になってから詩と漫画を読むことが許可された。長いものを読むと熱が出た。瞬間的な集中以外は肉体的にも不可能だった。
 中学生の時は短歌を詠んでいた。お手本は万葉集だった。母親が日本浪漫派の前川佐美雄、吉井勇の影響を受けて新古今調の歌を書いていたから、皇国少年の私が万葉集に拠って短歌を詠むのは、当時の世の中の雰囲気としては自然ななりゆきであった。
 しかし戦争が日本の完全な敗北で終った時、私は短歌をやめた。最近、母が残した文書を整理していて、子供の頃、私が書いた短歌のノートを発見した。その最後に、「これは戯歌です」と前書を付けて、


おお君は哀しからずや神の中
人の中にも住めず漂ふ


という歌が書いてあった。多分敗戦の翌年の正月、天皇陛下が「人間宣言」を発表し、地方巡幸をはじめた頃に詠んだのだ。このような過去があったから医者の許可があっても短歌・俳句には心が向かなかった。逆に萩原朔太郎・白秋・西脇順三郎の作品を読むと何だか自由な気分になり、こんな具合に身構えずに表現してもいいのだと、何か今までの呪縛が解ける感じがして、自分でも少しずつ思い浮んだ詩句をノートに記すようになった。

鎖国状態だった芸術的感性
 最初の詩集『不確かな朝』が出版されたのは一九五五年、二十八歳の時である。遅い出発であった。二冊目の『異邦人』で犀星賞を受けた時、新人登龍にその様な賞があることを私は知らなかった。一九六一年のことだから、私はその二年前に、西武百貨店のフランス展のために、パリに二ヶ月ほど滞在して商品の仕入れをした。
 その滞在期間中、フランスへの永住を決めた妹の案内で、パリのいくつかの美術館を訪ね、カンジンスキー、クレー、ルノーのような近代絵画、ダリ、デュシャン、マンレイのような、ダダ・シュールレアリストの作品を見た。
 それは私にとって衝撃に近かった。疲れてホテルに戻ってラジオのスイッチを廻すと、そこでも今まで聴いたこともない音楽が流れてきた。辛うじてケルン放送局提供・作曲者はシュトックハウゼンという固有名詞を耳にとめて、翌日街のレコード屋に行ったが、パリの繁華街では、シュトックハウゼンを知っている店員はいなかった。
 こうした経験は、三十歳を過ぎるまで私の芸術的感性は鎖国状態だったと教えていた。

従来の叙情詩からの脱皮
 その三年後、父親の命令でアメリカの西海岸に百貨店を開くために、ロサンゼルスに滞在することになった。近くにハリウッドの映画撮影所とディズニーランドがあったが、私には死ぬほど退屈な、文化果つるところという感じだった。それだけに社用でニューヨークに行くと、息を吹き返したような感じになった。
 この都市には近代美術館MoMAも、グッゲンハイム現代美術館もあり、必ず芝居やミュージカルも公演されていて、街のギャラリーはポップ・アートの花盛りであった。ヒトラーの虐殺を逃れてアメリカに亡命した芸術家も健在で、私はパリに次いでもう一度、世界に拡がっている新しい世界の中の遅れた孤児という感覚を味わったのであった。
 ロサンゼルスに戻れば百貨店の経営者に没頭しようと努力し、自分の時間は日本から送ってもらった本を読み、詩を書くことに使った。こうして三冊目の詩集『宛名のない手紙』がまとめられた。ここにはアメリカ滞在中に書いた「カリフォルニア伝説」「渇望」などの詩篇が収められている。しかし、本になっていくらも経たないうちに、私はこの詩集が自分の体験したものに較べて軽いという感じがした。取れるのは「渇望」ぐらいかと考えたりもし、もう従来の表現方法では現代に生きる感覚を表現できなくなったという落胆の中から、従来の叙情詩の手法では、流行歌の歌詞のようなものしか書けないのだと思い詰めたりした。それを証明するかのように『宛名のない手紙』は、内容は異なるが演歌の題になり、一流歌手の由紀さおりが歌ってヒットした。単独の詩集としては第三詩集以後八年の空白があって『誘導体』になる。それからまた六年して『箱または信号への固執』が出版されるのだ。
 詩集の題名を見ても、従来の叙情詩から脱皮しようと苦戦している様が分るような気が私にはする。
 このように過去を辿ってみると、詩を書く人間としての私の足跡は悪戦苦闘の連続だったような気がする。
 その蹌踉とした足跡がいくらか整うようになったのは、『沈める城』で主題の思想性を大事にすることを覚え、一九八五年の『たとえて雪月花』ぐらいから、伝統的な感性を書法として現代に活用してもいいのだと気付いた頃からだろうか。
 しかし、このような自由を自分のものにするためには、前提としてはっきりさせておかなければならないことがある。それは生き残ってしまった者の責務だ。どこかの宗匠のようにただ感性の祝祭に盃をあげてはいけないのだという自戒から、私は後に『わたつみ』三部作としてまとめることになった『群青・わが黙示』『南冥・旅の終り』『わたつみ・しあわせな日日』を、一九九一年から一九九九年まで八年をかけて書いた。(…)

作家としての足取り
 とすると、私は平行して小説を書いているのだから、作家としての足取りは自分としてはどう認識しているのだ、という、やや詰問に近い質問の声が聞えるような気がする。(…)
 ひとつは身近の人々の人生を探るという問題意識であり、その中心を貫いているのは父親に対する敵愾心である。それはギリシャのオイディプス神話にあるような父と子の宿命を下敷きにしているのかもしれないが、私の意識は、ひとつは権力、既成秩序への反抗心、もうひとつは野蛮に対する憎しみである。ことに自分の家族との関係、また男女の関係を人間同士の関係と考えない野蛮を、私は許すことができなかったから、それにまつわる不合理を作品に形象化することで普遍的なものにしたかった。
 それが『いつもと同じ春』『暗夜遍歴』『父の肖像』であり、同じモチーフを知ること が出来た素材を使って展開したのが『終りなき祝祭』『終わりからの旅』などである。
 もうひとつ、才能や人間的に魅力ある人物が歴史社会の変動の中で生きていく姿を描く姿を描きたいという、私のなかにある一種の憧れを定着させようとしたのが『虹の岬』『風の生涯』『茜色の空』であり、第三のタイプは抽象的な問題意識から発足しているもの、例えば共同幻想としての国家とは何かを追求した『沈める城』、またこれも城のイメージが絡っているのだけれども、その城に入れない男の哀しさをテーマにした『萱刈』がある。
 しかし、いずれの場合も登場人物の形象化などには苦労しているけれども、詩の場合のように実生活が及ぼす影響などは無視して書法について思い悩むというようなことは、意識としてはなかった。(…)

「生光」について
 この詩と小説という二つの形式の間でジャンルに囚われず想いを述べ感想を綴ってきたのが随筆、あるいはエッセーの分野である。作品を書こうという意識がなく、その時代の世の中の事柄について考えた事、感じた事を書いているので、その意味では自分の気付いていない素顔が現れているかもしれず、その意味では少し緊張している。
 『生光』はその中から詩、あるいは詩人に関するエッセイを集めている。その中で韓国の詩人高銀との出会いは、私に深い印象を与えた。彼の詩についての発言は、私に日本の現代詩が陥っている空間の狭さを一気に照し出したのである。
 そうして最後にもうひとつ。私にとって俳句や短歌について感想を述べたり、そこからひとつの光景を思い浮べたりすることがひどく楽しいのはなぜだろうと考えてみることがある。今は自分の専門ではないので気楽だからだろうか。私にはどうもそう思えない心の部分がある。私の楽しさは、都市での仕事を離れて郷里に帰った人間の心安さに似ているからである。
 尚、この評論集の題名になっている「生光」という言葉は、「皆既日食・皆既月食において皆既が終わり輝き出す瞬間」(小学館『日本大辞典』による)を意味し、韓国の詩人高銀に教わった言葉である。

(構成・編集部)
(つじい・たかし/作家・詩人)