2011年01月01日

『機』2011年1月号:ブルデューが遺した謎 加藤晴久

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ブルデューの仕事の総括
 二〇万部を超すベストセラーになったブルデューの研究チームによる労作『世界の悲惨』刊行は一九九三年。そのあたりからブルデューは自分の仕事の総括を企図したように思う。これは、彼の立場からすれば当然、社会・人間・行動についてのおのれの理論を体系的に展開すると同時に、再帰的= 反省的〔réflexif〕な自己分析の作業となる。
 まずは一九九七年四月刊行の『パスカル的省察』第I章末尾の「添え書き1非個人的告白」①。次いで二〇〇一年刊行の『科学の科学』(原題「科学の科学と反省性」)の第II章「2 自己分析のための素描」②。そして本書『自己分析』③である。この本の原題は「自己分析のための素描」であり、②と同じである。  なぜそうなのか。
 ブルデューは、二〇〇〇年秋から翌年春、つまり定年退職前最後の学年度、コレージュ・ド・フランスでの講義を科学社会学をテーマとしておこなった。そして、その最終回を、「対象化する主体を対象化する」目的で「自己分析のための素描」に充てた。この様子を報じた『ル・モンド』紙の記事(二〇〇一年三月三〇日付)を読んだドイツのブルデューの出版社Suhrkamp Verlag は、この学年度の講義全体のテーマが「自己分析」であったと誤解して、近刊書Bourdieu über Bourdieu「ブルデュー自分を語る」として紹介してしまった。夏のあいだブルデューは講義録に手を加え、一〇月に『科学の科学と反省性』として刊行したのであるが、Suhrkamp 社の誤解を解くかわりに、『科学の科学と反省性』の最終章「自己分析のための素描」をさらに展開して一冊の本にすることを思い立ち、一〇月から作業に取りかかり、一二月一五/一六日に原稿をSuhrkamp 社に送った(この原稿は翌二〇〇二年一月一一日、わたしのもとにも送られてきた。死亡する一二日まえのことである)。ブルデューは死の床で、「自伝」をまずドイツと日本で発表することを考えたのである。なぜ、まずフランスではないのかについては「訳者あとがき」で詳しく書いた。

ブルデューが遺した謎
 以上三篇の自己分析でブルデューは時系列的な記述をしていない。①では、自分がグランド・ゼコル準備学級を経て、エコル・ノルマルの哲学生になった一九五〇年前後の哲学界・知識人界の構造を記述している。②では、これに加えて、自分が学問の世界に参入した一九六〇年代のフランス社会学界の構造を記述し、そうした諸可能態の空間における自分の位置取り、またラザーズフェルドらアメリカ社会学や同時代の哲学に対する位置取り、哲学から民族学、さらに社会学への移行の過程を説明している。さらに、みずから「分裂ハビトゥス」と呼ぶ自分のハビトゥスがいかにして形成されたかを説明するため、自分の出自、またポー中学高校での寄宿舎生活に触れている。③では、アルジェリア経験と自分の出身地を対象にした研究の記述が加わり(注1)、さらに自分の父親のみか母親について語り、またポー中学高校での寄宿舎生活が詳しく語られている。
 つまりブルデューの自己=社会分析は、時間を遡行する方向で、そして公の次元から私の次元へ、語りやすいことから語りにくいことへと深められていくわけである。
 だが奇妙なことに、自分の置かれた界、そのなかにおける自分の位置と位置取りから自分の仕事のありようを解明するはずの自己分析は、ひとつの行き止まりにぶつかる。本書一〇八―一〇九ページで触れられている「わたしの子ども時代の楽園に取り返しのつかないものを引き入れた残酷きわまる不幸な出来事」とは、何なのか。この本で述べた記述や説明を「不正確かつ部分的な」ものにしてしまう出来事とは、何なのか。「どうしても言わないわけにはいかない」と言いながら、触れているだけで語っていない出来事とは、何なのか。
 ブルデューが遺した謎である。


1 没後の二〇〇二年三月刊行の『結婚戦略』(原題「独身者たちのダンスパーティ」)の序は、前年七月執筆で、ほとんどそのまま本書『自己分析』に転記されている。やはり没後刊行の写真集『アルジェリアのイマージュ』冒頭のインタビュー(二〇〇一年六月二六日収録)も、アルジェリア体験を「選択的親和」として愛着をこめて回顧している。


(かとう・はるひさ/東京大学名誉教授)