2011年01月01日

『機』2011年1月号:「参与」としての横井小楠の九カ月 源 了圓

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 明治元年(一八六八)四月から、暗殺された翌明治二年(一八六九)一月五日まで、約九カ月にわたる横井小楠の参与時代の思想と行動を明らかにすることは、けっして楽ではない。たった九カ月の思想と行動自体を解明するにはいろいろの工夫が必要だろうと思う。何が参与時代の小楠研究を困難にしているか。
 山崎正董が編集した『横井小楠 遺稿篇』(明治書院、一九三八年)に収められている参与時代の朝廷への建白の類は、わずか七頁である。一見すると、これを通して解明は非常に容易に見えるが、その実、却って困難になっている原因を探って見ると、山崎氏の史料の配置の仕方に大きな問題があることに気がつく。今、その配列の順序を見よう。


 一、中興の立志七条(執筆年月日不詳)
 二、会津・仙台の処置に関しての御諮詢に答ふ(明治元年十一月八日)
 三、時務私案(いずれも明治元年)
(附)時務私案
(イ)議事の制に就きての案
(ロ)処務案
(ハ)服制案(明治元年六月)

 


この配列の順序を時系列に従って変えてみる。


 一、時務私案 
(イ)議事の制に就きての案(明治元年四月―五月下旬)
(ロ)処務案(同四月―五月)
(ハ)服制案(同六月)
 二、中興の立志七条(同九月下旬)
 三、会津・仙台藩の処置に関しての御諮詢に答ふ(同十一月八日)


 「一、時務私案」のうち、私が「議事の制に就きての案」を四月―五月下旬とし、「処務案」を四月―五月という順序に想定した理由は、彼が「参与」として閏四月に上洛して初めて「議定・参与」の会に出席し、先ず依頼されたのは、福岡孝悌・副島種臣の起草による「政体書」の検討であったことによる。この「政体書」をめぐる小楠の意見については、本稿(『環』44号)第I部で紹介する。
 また「二、中興の立志七条」について、元版では編者は「年月日不詳」としているが、これは小楠が岩倉具視に頼まれて自分の天皇観の基本的考えを書いたものであり、輔相岩倉が明治天皇のお伴をし、東京に向けて京都を発ったのが明治元年九月二十日であるから、この文の書かれたのは同年九月の下旬ないし十月の初旬と推定するのが一番理に適っている。これについては本稿第II部で詳述する。と、劉さんの心の中ではすでに獄中に入る覚悟ができていたように思う。

(みなもと・りょうえん/政治思想)
*全文は『環』44号に掲載。