2011年01月01日

『機』2011年1月号:私には敵はいない 劉暁波

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私の民主化闘争
 私の人生はすでに五〇年あまりを閲したが、一九八九年六月は私の生命の重大な転換の時であった。私は文化大革命後に復活した大学入試の第一期大学生(七七年次)で、学士から修士、それから博士へと私の勉学生活は順風満帆だった。
 卒業後は北京師範大学に残り教職に就いた。大学では私は学生からとても人気のある教師の一人だった。同時に私は社会活動に携わる知識分子(名声、影響力があり、特に政府に対する反対意見を表明する人物)であり、前世紀八〇年代にはセンセーションを巻き起こす文章と著作を発表し、常に招かれて各地で講演し、さらに欧米各国の招きに応じて外国に出かけ訪問学者となった。私は自分自身に対し、人間としても或いは文筆家としても、誠実に、責任をもち、尊厳をもって生きることを課して来た。
 その後、アメリカから帰国して八九運動(天安門事件にいたる民主化要求運動)に参加したため、私は「反革命宣伝扇動罪」で投獄され、こよなく愛した教壇に立てなくなり、国内で文章を発表し講演することももはやできなくなった。ただ体制側と異なる政治的主張を発表し、平和的な民主運動に参加したというだけで、一教師が教壇に立てなくなり、一作家が発表の権利を失い、社会活動に携わる一知識分子が公開で講演する機会を失うとは、私個人にとってだけでなく、改革開放からすでに三〇年たった中国にとっても、ともに悲哀である。
 思い起こせば、六四(天安門事件)以後、私の最もドラマティックな体験は明らかにすべて法廷と関連している。この間、私は公衆に対して話をする機会が二度あったが、それはみな北京市中級人民法院が私にその場を提供したものである。一度は一九九一年一月で、もう一度は今である。告発された罪名はそれぞれに異なるが、その実質は同じだ。いずれも言論によって罪を得たのである。


私には憎しみはない
 二〇年が過ぎた。六四の怨念を抱いた霊魂はいまだ瞑目できずにいる。六四の情緒的影響で体制側とは異なる政治的主張をする者の道に入り込むこととなった私は、一九九一年、秦城監獄を出たのちは、自分の祖国で公に発言する権利を失い、ただ境界外のメディアを通して発言できるだけになった。またそのために長年監視と制約を受け、監視のもとに居住し(一九九五年五月―一九九六年一月)、労働矯正教育(軽微な違法行為に対する強制的な教育改造措置)を受け(一九九六年一〇月―一九九九年一〇月)、現在はまた政権の敵対意識によって被告席に座らされている。
 だが私はこの私の自由を剥奪した政権に対して変わりなく言おう――二〇年前、私が「六二絶食宣言」(一九八九年六月二日、劉暁波ら四人の知識分子は、軍事管制に抗議し、知識人が軟弱な故の過失を懺悔するとして絶食に入った)において表明した信念、即ち私には敵はいない、私には憎しみはないというこの信念を私は堅く守っているということを。
 私を監視し、制約し、逮捕し、尋問した全ての警察官、私を起訴した検察官、私に判決を下した裁判官、彼らはみな私の敵ではない。私は不法にも君らの監視、制約、逮捕、起訴、それに判決を受けたが、私は君らの職業と人格を尊重する。その中には今告発者側を代表して私を起訴した二人の検察官、張栄革と潘雪晴も含まれる。一二月三日、二人の私に対する尋問の間、私は君らの〔私に対する〕尊重と誠意を感じ取ることができた。
 憎しみは人の知恵と良知を腐食させ、敵対意識は民族の精神を毒し、生きるか死ぬかの残酷な闘争を扇動し、社会の寛容と人間性を毀損し、国家が自由民主へと歩む進行過程を妨げる。それ故、私は自分が個人的境遇を超越して国家の発展と社会の変化に対処し、最大の善意をもって政権の敵意に向き合い、愛によって恨みを溶かすことができればと希望する。(後略 構成・編集部)(二〇〇九年一二月二三日/於・北京第一中級人民法院)

(リュウ・シャオボ/作家)
(横澤泰夫・訳)