2010年12月01日

『機』2010年12月号:日本の刺青と英国王室 小山 騰

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一八七〇年代、イギリスに影響を与えた日本の刺青
 刺青は皮膚に傷を付け、墨や染料などの色素を肌の下に入れることである。刺青を入れる習慣は古くから世界中にあって、日本でも上古・古代などに存在したが、それがいったん廃れてしまったようである。しかし、江戸時代中期以降に独自の発展をとげ、日本固有の絵画的な刺青に成長し、ある意味では芸術の領域に達した。
 英国などでも刺青は古い時代から存在したが、日本の場合と同じように忘れ去られてしまった。しかし、キャプテン・クックの南太平洋への航海を通じてふたたび英国に紹介され、英国では船乗り、兵士、犯罪者などが刺青を入れるようになった。一八七〇年代に当時の皇太子(のちのエドワード七世)が刺青を彫ったことをきっかけとして、王室関係者や上流階級の間でも刺青を入れるというファッションが大変流行する。まさに日本の明治時代に相当する時代のことである。その流行は英国王室の錯綜した姻戚関係を通じて、他のヨーロッパ諸国の王室やアメリカの上流階級にも波及した。
 歴史には常にアイロニーがつきもので、明治時代の刺青もその例外ではなかった。文明開化を国是にかかげる明治政府は、刺青を野蛮の象徴であると見なし禁制にした。しかし、世界漫遊家など文明開化のモデルである西欧諸国からの来訪者は日本の刺青を称賛し、日本で刺青を入れることを熱望していた。
 また、日本の刺青は、刺青勃興期にあった英国や米国などの外国の刺青師(彫師)にも大きな影響を与えた。優秀な日本の刺青の海外への紹介と同時に、明治時代になると欧米の彫師たちも日本の刺青から多くの技術、手法、デザインなどを学んだのである。

日本の刺青師、彫千代
 それでは、外国人が日本の刺青を"発見"し、高い評価を与えた明治時代とは、一体どのような時代であったのであろうか。年代からいえば経済史でいう第一期グローバリゼーション(一八七〇―一九一四年)とほぼ一致する時代でもある。交通機関(蒸気船や汽車)や通信機関(電信など)が発展し、人、モノ、情報の交流が盛んになり、日本を含むそれまで比較的バラバラに発展してきた地域なども、欧米などを中心とする"近代化"という大きな潮流に引き込まれた。
 それまであまり海外に知られていなかった日本の文物、風俗、習慣などが、開国・近代化の過程を通じて欧米などの外国に紹介されるのも、この時代である。別の面から考えれば、いわば諸外国から見てユニークと思われる日本の文物が顕在化する時代であろう。その一つに、ここで取り上げる刺青も含まれていた。
 日本の刺青の名声は、実際に刺青を彫る日本の彫師によって担われていた。ただし、世界漫遊家や外国の彫師などを通じて海外で有名になった日本の彫師は、不世出の名人といわれた彫宇之(初代)ではなく、日本ではほとんど無名であった彫千代であった。
 来日した二人の英国王子(アルバート・ヴィクター王子とジョージ王子、のちのジョージ五世)に入墨したという伝説を持つ彫千代は、外国では"刺青師のエンペラー"という最高の称号を与えられ、現在までもその名声は続く。彫宇之は、東京で実際に長期にわたり刺青の名人として君臨した。しかし、"刺青師のエンペラー"彫千代自身は、その海外での名声とは裏腹に、横浜で活躍していた四十歳の働き盛りの頃、北海道で娼婦と心中してあっけない最期を遂げ、数奇な運命を終えていたのである。

王室の歴史的役割
 刺青流行の影響を受けた、英国を中心とするヨーロッパの王侯・貴族の話題に触れたので、ここで少し君主政について言及してみたい。現在、ヨーロッパには五〇ほどの国家があるようである。そのうちいわゆる世襲による君主国は一〇カ国ほどで、おもな君主国は英国、スペイン、オランダ、ベルギー、デンマーク、スウェーデン、ノルウェーなどである。
 ところが、二十世紀初頭には、ヨーロッパには共和国はフランス、スイス、サン・マリノの三カ国しかなかったのである。一方、第一次世界大戦以前には君主国が幅をきかせ、王室もそれなりの力を持っていた。現在もそうであるが、ヨーロッパの王室をいただく国の代表は英国であった。その大国英国の王室が刺青と深い関係にあったのである。
 立憲君主政などによる制限はあったが、第一期グローバリゼーションの時代には、英国を含むヨーロッパ各国にあった王室などもそれなりの歴史的役割を果たしていた。権限、権威、影響力を持った王室や貴族も、与えられた歴史的な立場から一般民衆と同じように"歴史"に参与していた のである。ヨーロッパの王室はロシアのように革命などにより消滅する場合もあったが、うまく立ち回った場合には、英国王室のように存続・繁栄する道も残されて いた。

四人の英国王子の刺青
 さて明治時代には、刺青流行の影響を受けた英国王室から、五人の王子が日本を訪問した。明治初(一八六八)年に日本を最初に訪問したアルフレッド王子(ヴィクトリア女王の次男、エドワード七世の次弟)以降、日本を訪問した英国王室関係者は刺青を入れるというのが、ある種の伝統になっていたようである。実際に来日した五人の王子のうち、少なくとも四人は刺青を入れていた。
 明治十四(一八八一)年、英国の二人の王子(アルバート・ヴィクター王子とジョージ王子)が軍艦バッカンテで来日した。二人は王室関係者や貴族の間で流行った刺青の火付け役エドワード七世(当時は皇太子)の長男と次男で、来日の記念として刺青を入れたいと日本側に申し入れをした。それに対して、日本側は刺青が国禁であることを理由になんとか断ろうとする。しかし、二人が両親から許可を得ていたことも理由のひとつであったが、当時大国である英国に対して非力であった日本は、英国二王子の刺青要請を受け入れざるを得なかった。
 時は移り時代もかわり、大正十一(一九二二)年に入ると、英国皇太子エドワード(エドワード八世、ウィンザー公)が軍艦リナウンで来日した。エドワード王子も明治十四(一八八一)年の場合と同じように、日本側に刺青を入れたいと要請した。皇太子エドワードはエドワード七世の孫、日本で刺青を入れたジョージ五世(ジョージ王子)の長男であった。当然日本で刺青を入れる"いわれ"があったのである。ところが大正十一年の場合、日本政府は英国皇太子からの要請を刺青国禁の理由で拒絶することができた。日本はすでに世界五大大国の一つになり、三大海軍国の一角を占めていた。日英関係の力関係は大きくかわっていたのである。
 このたび『日本の刺青と英国王室』を上梓することになった。本書では、上述の話題のほかに、幕末・明治時代に活躍した日本の主要な名人彫師、滞在記や旅行記などに記載された日本の刺青の評判などの話題も取り扱う。英国王室と刺青という組み合わせに意外な感じを受けるかもしれないが、庶民の間で独自の発展を遂げた日本の刺青は、明治時代に英国王室などを中心とする欧米の上流階級と密接な関係を持っていたのである。これも明治時代にかかわる歴史の一つである。

(こやま・のぼる/ケンブリッジ大学図書館)