2010年12月01日

『機』2010年12月号:ルイ十四世の世紀――十七世紀 金光仁三郎

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ヴォルテールとミシュレ
 周知のように「フランス十七世紀史」については、ミシュレ以前にヴォルテールも書いている。表題が示す通り、ヴォルテールが『ルイ十四世の世紀』に焦点を合わせているのに対して、ミシュレはフランス全史の一部として十七世紀を扱っているから、そこにはおのずから違いが出る。しかし、同じ世紀の史実を扱っている以上、ミシュレがヴォルテールを多分に意識しながら執筆したことはおそらく間違いあるまい。
 ヴォルテールは、第一章序説で、世界史上特筆すべき時代として四つの世紀を挙げている。第一はフィリップとアレクサンダーの時代、第二はシーザーとアウグストゥスの時代、第三はイタリア・ルネサンスの時代、第四はルイ十四世の時代。そして、最後の十七世紀フランスを四つの時代中、最も完成度の高い時代と述べ、あらゆる芸術が他の三つの時代に比べて発達したわけではないが、理知が完璧に近づき、健全な思索が行われ始めた世紀としている。実際、リシュリューの晩年からルイ十四世の没後までに、芸術、思想、風俗、政治は面目を一新させ、フランスの栄光を永遠に記念する全面的な変革が行われたと語っている。ヴォルテールは、彼一流のシニシズムを織り交ぜながら、ほぼ上の見解に沿って『ルイ十四世の世紀』を書き上げた。
 ミシュレも「ルイ十四世の世紀」が「諧調の時代」であったことを否定していない。


「ルイ十四世の御代が嘆かわしい結末になったからといって、当時の社会や文明が持っていた美しく偉大な面を見失ってはなるまい。……そこにはそれ以前もそれ以後も目にしたことがない"諧調"の世界があった、……"諧調"の世界は、国の絶大な力から生まれたものだ。この力は単に恐れられただけでなく、権威あるものとされ、模倣の対象になった。これは、どんな大きな軍事専制体制も決して得たことがないまれにみる栄光だった。」(「10ルイ十四世時代の特質」)

ミシュレが描く十七世紀
 しかし、「諧調の時代」は、ヴォルテールが言うような「世界史上特筆すべき時代」ではなかった。十七世紀は「多くのものを完成させ、それらに終止符を打ったものの、なにひとつ創始しなかった」とミシュレは言う。ルネサンスの時代には天才たちが神々のはじける笑いや喜びを持って世界を創始していた。しかし「諧調の時代」には天才たちの間でさえ無力感にさいなまれた「憂愁の気配」が漂っていたと言う。ミシュレは、気高く甘美な調和の中に突然露呈する「音調の不一致、不快な不協和音、醜い怪物」を研ぎ澄まされた歴史家の眼力で描き出そうとする。
 民衆の心を持った十九世紀の歴史家は、啓蒙の時代の渦中にいたヴォルテールとは違い、民衆革命としてのフランス革命を客観的に史実として受け止める視点をすでに備えるようになっている。その民衆の心根から絶対王政のほころび、不快な不協和音をミシュレは聞き取ろうとしているかに見える。それだけでなく、「諧調の時代」の諧調の礎を創り上げた代表的な人物として、ブルジョワ出身のコルベールとモリエールを高く評価しているところを見ると、その諧調さえ民衆なくしては創り上げられなかったと主張しているように見える。


「当時、間違いなく最も偉大な人物といえばコルベールとモリエール、この二人の男だけは悲嘆に暮れていた。」(「12モリエール」)


 コルベールの採った代表的な政策を挙げるなら、マザランの野放図な借金財政を転換させる王令を一六六二年に発布して、厳格な会計検査を義務づける財政改革を断行、借金を禁じて自己破産から諸都市を救った。裁判官も刷新し、司法改革を行ったなど。
 ミシュレは、自分と同じ仕事人間としてコルベールに共感する一方で、「悩める火山」のようなモリエールが、「恐ろしいほどエネルギッシュ」に日々、時代の言葉を書きとめ、『タルチュフ』、『ドン・ジュアン』、『人間嫌い』などの喜劇を通じて、宮廷内の不協和音、その醜い怪物の様態を実写していく姿勢に対して、歴史家の一線を超えた主観的な愛着をこめて、寄り添うようにカメラを回し続ける。歴史家の冷ややかな実証の目より、芸術家の主観的な想像の視点で捉えたほうが、宮廷の当時の実態ににじり寄れるといわんばかりだ。


芸術家の文体
 そのような主観的なカメラ・ワークは、モリエールの庇護者であった王弟妃殿下アンリエット・ダングルテールを描く際も変わらない。『魔女』や『女』の著者であるミシュレは、両性具有者の複眼的な天分を持っていたと評された。それほど女性を巧みに描いたということだろう。例えば、毒を盛られた日の彼女は、こう描かれる。


「妃殿下はさめざめと泣いた。だれからも支えられていないと思った。……一人きりだった。すべてのものが彼女に敵対していた。……暑かった。妃殿下は風呂に入り、それで気分が悪くなったもののうまく持ち直し、二日間、どうにか食事と睡眠を取った。六月二八日、彼女はチコリの煎じ茶を所望して飲んだ。途端に顔面が紅潮し蒼白になりうめき始めた。いつもはとても我慢強い彼女だったのに、激しい苦痛に身をゆだねた。目に涙をたたえ、もうすぐ死ぬかもしれないと訴えた。」(「13王弟妃殿下の死」)


 これは、もう歴史家の書き方ではない。小説家の文体だ。『フランス史』には、随所にこうした文体が現れる。埃のなかに打ち棄てられた古文書から、ミシュレは想像力を飛翔させて濃密な生き生きしたイメージを紡ぎだす。その生きたイメージが枯れ果てた実証の世界、闇の世界に二度と戻れないと即断されたときに、筆の切っ先は自然に芸術家の文体になる。


「歴史とは復活だ」
 アリストテレスが『詩学』で述べている、死んだ「真実」より生きた「真実らしさ」、つまり可能性が開示される瞬間だ。そこをミシュレは、別の言い方で「歴史とは復活だ」(『民衆』序文)と語ったのだろう。過去を生き生きとよみがえらせるためには、「実際にあったことを描く」歴史家の領域にとどまっていただけではだめだ。「ありうること、起こりうることを描く」詩人の領域にまで踏み込んでいかなければいけない。アリストテレスの言葉で代弁すれば、ミシュレはそう真意を述べているような気がする。

(後略 全文は『フランス史IV』に収録)
(かねみつ・じんさぶろう/中央大学教授)