2010年11月01日

『機』2010年11月号:後藤新平の「世界認識」 井上寿一

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後藤新平の対外ヴィジョン
 後藤新平の対外ヴィジョンは、一見すると相互に矛盾する複雑でわかりにくいものである。後藤の経歴は近代日本の帝国主義的な対外発展の歴史と軌を一にしている。後藤は台湾の植民地統治に総督府民政長官として辣腕を振るい、一九〇六年には初代の満鉄(南満洲鉄道株式会社)総裁に就任する。
 このような経歴から後藤を「帝国主義者」と呼んでよいのかもしれない。ところが後藤は、第一次世界大戦中の日本による中国に対する帝国主義的な要求(対華二一条要求)を批判している。他方で後藤はシベリア出兵(ロシア革命に対する干渉戦争)に賛成する。それにもかかわらず、ソ連の成立後は一転してソ連との国交樹立に尽力した。対外政策の一貫性の欠如、矛盾は対中、対ソ関係に限らない。後藤は「新旧大陸対峙論」を唱えた。これは台頭するアメリカに対する日中露三国提携論である。その後藤は満鉄総裁として、アメリカ資本の積極的な導入による満鉄経営をおこなう。対米ブロック圏構想とは対照的な対米態度だった。(略)

後藤新平の対中政策
 本巻(『世界認識』シリーズ・後藤新平とは何か―自治・公共・共生・平和)の最初に所収されている「対清対列強策論稿本」は、日露戦争後の日本の外交政策論である。ロシアとの戦争にかろうじて勝つことができた日本は、それゆえにこそロシアとの再戦を恐れた。
 これに対して後藤は、対露再戦よりも日清対立を危惧した。日露戦争の結果、日本が手に入れた満鉄などの「満蒙特殊権益」をめぐって、日清対立が激化する。後藤はそう予測した。後藤は「第二の日清戦争」とまで危機感を強調している。もとよりこれは比喩である。後藤は日清外交交渉によって、「戦争」を予防できると考えていた。
 後藤に既得権益を手放す気はなかった。それにもかかわらず、なぜ後藤は外交交渉による解決が可能と踏んだのだろうか。(略)後藤にとって満鉄は、いわば列国との公共財であり、中国東北部の文明化の手段だった。このような存在の満鉄をめぐって、日清間が正面衝突をすることはない。後藤は外交交渉による調整をめざした。


列国協調の重視
 以上の対外政策構想は、別の言い方をすれば、満洲をめぐる列国協調の重視だった。後藤は「ただ今、米国のわが国に対する善意は是非とも迎えて、強固にすべきである」と日米協調を掲げる。他方で対露関係について、「雨降って地固まる」とでもいうべき、戦争を契機とする提携論を展開する。これに日英同盟を加え、フランスに接近する。後藤は多国間協調のネットワークを形成しようとした。
 実際のところ、一九〇七年六月に日仏協約、同年七月に日露協約がそれぞれ成立する。後藤はこれを欧州国際政治における勢力均衡の極東への波及と理解する。列国の勢力均衡の意義は何か。後藤は「非戦的非軍備的意義」にあると喝破した(「対清政策に於ける日露日仏協商の価値」)。すなわち日仏露英の列国協調のネットワークは、軍事から非軍事=経済へとその意義を転換していく。後藤が重視したのは、中国をめぐる列国との経済協調関係の確立だった。
 このような対外構想を持つ後藤が対華二一条要求を批判したのは、当然だったといえよう。欧州大戦中の一九一五年一月、中国に突きつけた二一項目の帝国主義的な要求は、日本の個別利害の確保が目的であって、列国協調に反したからである。後藤は同時期、東洋銀行構想を推進すべく努めていた。東洋銀行の創設をとおして日中経済提携を進めて、中国を経済的な列国協調のネットワークのなかに入れる。そう考える後藤にとって、対華二一条要求は、批判されなくてはならなかった。
 対華二一条要求は、列国の非難を浴びる。日本は要求項目のいくつかを撤回し、譲歩を余儀なくされる。日本の対華二一条要求外交は失敗に終わった。これを受けて後藤は翌大正五(一九一六)年九月の論考「不徹底なる対支政策を排す」において、中国をめぐる列国協調の立場から「日支両国の地位および利害を差別的に判断し、ひいては両国の関係を紛糾させ、かつ列国にわが国の政策が領土的野心から出たもののような誤解と疑惑を惹起させることになる」と注意を喚起した。後藤の立場は列国協調の重視で一貫していたのである。 (後略 構成・編集部)

(いのうえ・としかず/日本政治外交史)