2010年10月01日

『機』2010年10月号:異郷と故郷のはざまで 姜尚中+森崎和江

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【姜】 森崎さんのお父様が熊本でいらっしゃいますね。


【森崎】 父親の先祖が熊本。「たった一人でも熊襲だぞ」と言って追いかけてくるから、熊襲の里を訪ねたくて、熊本に向かったわけです。そうしたらあなたが、今や熊襲の里でそんなに偉くなった人が……。私は嬉しくて。あなたに二度と会えないと思っていたんですけど。


【姜】 いえ、とんでもございません。森崎さんが何となく僕にとって身近なのは、やはり九州ということがあると思います。僕なんか、少しメディアに出てちょっと有名になると、昔のことはもう何もなかったように皆さんが接してくださるんですが、それが時々僕はそうじゃないんじゃないかと……。やはり心に澱のようにわだかまっているものがあります。


【森崎】 何か、私と裏返っているみたいな感じがしますね。


【姜】 ええ、そうですね。金時鐘先生が、『森崎和江コレクション』の月報に「背中合わせの申し子」と書いておられますね。


【森崎】 書いてくださっていましたね、本当に。


【姜】 僕は在日の二世ですから、ある意味でよくわかっていて、結局学校で上に上がっていけばいくほど在日の者というのはだんだんみすぼらしく見えるもので……。


【森崎】 私、いろんな人々と一緒に身近に暮らしたいわけね。在日として残っていらっしゃった、九州の炭坑で働いたオバアチャマたちとか。それから、何年ごろでしたか、炭坑町を歩いていましたらね、一枚ビラをもらったのよ。その頃はハングルを全然知らなかったでしょう。だから、九州大学に初めて韓国からおいでになった方に、ハングルを習っていたんですよね。でも、その頃私は体がもうとても弱くて、なかなか起き上がれなかったんです。それでも三年ぐらい習ったんですけどね、そのビラが読めないものですからその方に読んでいただいたんです。略語というのか、俗語というのか、そんなので書いてある。「皆さん集まりましょう、給料を上げさせるために」というビラだった。炭坑町で、私は在日として残ってくださっている方々をずっと訪ねたり、そこで亡くなった方のお墓をお参りしたりしておりました。(構成・編集部)


(カン・サンジュン/政治学者)
(もりさき・かずえ/詩人、作家)
*全文は『環』43号に掲載。