2010年09月01日

『機』2010年9月号:「身体の歴史は始まったばかりである」 岑村傑

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いまも生きている「二十世紀」の身体
 ある日の新聞をひらいてみる。iPS細胞(人工多能性幹細胞)による再生医療には期待できるようだ。DNA鑑定がらみの冤罪事件の続報には、義憤が漂っている。国際宇宙ステーションに長期滞在した宇宙飛行士は、地球の重力に慣れるためのリハビリに励んでいるらしい。いまは夏なので、終戦を記念する記事には厳粛な気持ちにさせられるし、かたや甲子園の球児たちの躍動は、猛暑何するものぞといったところだ。扇情的なグラビア雑誌、肌につやを取り戻すコラーゲン・ドリンク、育毛シャンプーなどの広告も目につく。文化欄では、映画監督が最新作についてインタヴューに答え、また、先頃亡くなった舞踏家の業績が称えられる。いたるところで、身体にまなざしが注がれている。
  * * *
 『身体の歴史』第III巻をお届けする。
 第I巻がルネサンスから啓蒙時代、十六世紀から十八世紀までを、続く第II巻が十九世紀を中心にフランス革命から第一次世界大戦までを扱い、それを承けて、本巻は二十世紀を対象とする。だが、そのような時代区分が多分に便宜的なものであることはいうまでもない。
 歴史叙述のレトリックはえてして文化的、社会的構造を一変させた決定的な日付を求めるが、いったいその「一変」とはそれまでの漸次の変化が臨界点に達して顕在するにいたったということだし、それが「決定的」なのは変化がそこでやむからではなく、そこから新たな変化が、大小取り混ぜ多岐にわたって、簇出するからである。歴史の変遷に切れ目はなく、ましてや世紀の区切りがそれ自体で重大な意味を持つはずはない。
 実際、本巻の「二十世紀」という看板も、偽りありではむろんないが、しかし厳密ではない。その「二十世紀」は暦のうえでの二十世紀より早く始まっている。「二十世紀」の身体は前世紀の身体文化、身体技法、身体観を基層として成り立つものだ。本巻の探求の手が、主題によっては、十九世紀後半にまで広げられる所以である。終いのほうはどうかといえば、いずれの問題も、二十一世紀に向かって開かれている。新世紀に入ってこのかた諸領域で加速度的な進展が見られたのだとしても、たかだか一〇年、原著刊行時で考えるならその半分だが、それだけのことであるならば、われわれの身体はまだ「二十世紀」の制約にとらわれている。
 本巻で語られるのは、われわれが現にいまも生きている「二十世紀」の身体であり、これから二十一世紀なりの身体のありようを模索しようとするならば、知悉するにしくはない身体像なのである。(中略)

身体に向けられたまなざし
 壮観、といってよい。医学、性愛、戦争、スポーツ、芸術といった巨大なテーマを、一巻のうちに平然と並べる歴史書も、あまり類を見ないのではないか。各章が刺激的な情報を与えてくれるのはいうまでもないが、いかんせんそれぞれの対象範囲の広さを前にしては、不足が出てくるのも当然のことだ。そこを突いても仕方がない。遺伝子工学や、同性愛や、アウシュヴィッツや、自転車や、ヌーヴェル・ヴァーグについてさらに詳細に知りたければ、それにふさわしい文献はほかにいくらでもあるだろう。
 本巻の、ということはつまり、『身体の歴史』全III巻の、ということでもあるが、その醍醐味は、各章が、身体を包囲する科学的、文化的、社会的、思想的な網を、目の粗さには頓着せずに、編みあげてみせてくれることにある。さらに、その各章の網が互いが伸ばした糸によって遠く近くに結びあわされて、われわれの眼前でそれが身体に幾重にもかけられていくさまには、息を呑まざるをえない。
 治療、規範、異常、同一性、統御、解放、不平等、暴力など、身体に絡みつく網の経糸、緯糸は無数である。だが、それらの錯綜のなかに、ときに太くなり細くなりしながらも全体をつなぐ一本の、いわば導きの糸を見出すことは難しいことではない。すなわち、本巻の副題ともなっている、「まなざし」である。
 「まなざし」とは、身体を解明し、享受し、支配し、あるいは救済しようとする知や志向の隠喩にちがいない。同時にそれはそのまま、より即物的に「見る」視線のことでもある。
 「医学と向き合う身体」についていえば、その歴史は身体の透明化の歴史でもあった。X線によって、MRIによって、内視鏡によって、身体はかつてないほどにその内を他者の視線にさらけだしたのである。
 「性愛の身体」も、凝視され窃視される身体にほかならない。性愛のまなざしは裸体を求め、水着は隠しながら挑発し、ポルノグラフィにおいては、身体は視線に供される商品となる。「日常の身体」が励む化粧やダイエットも、他者の視線に強制されている面は否定できまい。
 また、武器の発達した現代の戦争において、兵士はもはや誰に殺されるのかも誰を殺すのかもわからないが、それは視界の外にいる敵と戦っているということである。 「異常な身体」もまなざしによって慰みものとされたのだった。胴でつながれたトッチ兄弟に向けられる視線の分析は、本巻の白眉といってもよい。そのまなざしの、一点にとどまれない無限の動揺は、「怪物」の身体のみならず、どんな身体に注がれているのであれそれに惹きつけられているあらゆるまなざしの、その陶酔の源泉でもあるのではないか。 たとえばスポーツする身体、スクリーンのなかの身体、踊る身体、芸術の身体を前にした視線は、やはり果てしなく動揺し、そしてその動揺の愉悦に溺れているのではないか。

まなざしの変容
 さて、身体を見つめるまなざしは、どのように「変容」したのだろう。
 規範と逸脱、正常と異常の問題に限るなら、まずそれは、異常を検知し、区別しようとするまなざしであった。
 ところがやがて、逸脱は逸脱ではなくなる。二十世紀後半におけるまなざしは、異常を正常に対立するものとしては見なくなるのだ。あるのは異常な身体と正常な身体ではなく、多様な身体であり、かつての異常は、身体における切れ目のない差異の連続のなかに回収されるのである。
 しかしながらそれは、異常の消滅というよりも、異常の際限のない拡散なのかもしれない。身体の多様性を視野に収めるまなざしによって、わずかばかりの差異が異常として指弾されるということが起こる、あるいは起きているのではないか。そのようなまなざしから逃れることが、二十一世紀の身体にとって課題のひとつとなるにちがいない。

二十世紀は対象であると同時に起源である
 まなざしにこだわるなら、ここに幕が引かれることになるこの「身体の歴史」に注がれた視線も、二十世紀のものだということを忘れてはならないだろう。二十世紀のまなざしが、十六世紀から十八世紀までを見つめ、十九世紀を見つめ、そして二十世紀自身を見つめてきたのだ。
 この歴史的探求における二十世紀の特異性はそこにある。それは身体の歴史の対象であると同時に、その起源なのである。もし二十世紀に関心があってこの第III巻を手にしたという読者がいるならば、ぜひ第I巻、第II巻もひもといてほしい。そこにも二十世紀のまなざしを読み取ることができるはずだからだ。そして、この先二十一世紀に身体の歴史が書かれることがあれば、それは二十一世紀のまなざしによるまったく新しい歴史になるだろう。
 その意味で、本巻の編者ジャン=ジャック・クルティーヌが序文にいうように、「身体の歴史は始まったばかりである」。変容を経て新たなものとなったまなざしが描く歴史は、つねにその描かれる瞬間に始まるのである。

(みねむら・すぐる/フランス文学)