2010年07月01日

『機』2010年7月号:知里幸恵(一九〇三―一九二二) 合田一道

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 アイヌ民族の知里幸恵(二十歳)が上京先の国語学者金田一京助宅で亡くなったのは大正十一(一九二二)年九月十八日。幸恵は金田一の勧めで古くからアイヌ民族に伝わるアイヌ神謡(カムイユーカラ)を執筆し、出版に向けて死の直前まで校正を続けていた。
 『アイヌ神謡集』のなかのフクロウの神が自ら謡った「銀の滴降る降るまはりに」は、アイヌ民族の精神性を伝える貴重なものとなった。絶筆というには当たらないが、幸恵が命を削って書いた「世間に対する遺書」として取り上げる。
 神謡はかなり長いので、その前段部分だけを紹介する。

「銀の滴降る降るまはりに、金の滴
降る降るまはりに。」と云ふ歌を私
は歌ひながら
流に沿つて下り、人間の村の上を
通りながら下を眺めると
昔の貧乏人が今お金持になつてゐて、
昔のお金持が
今の貧乏人になつてゐる様です。
海辺に人間の子供たちがおもちやの
小弓に
おもちやの小矢をもつてあそんで居
ります。
「銀の滴降る降るまはりに
金の滴降る降るまはりに。」といふ
歌を 歌ひながら子供等の上を
通りますと、子供達は私の下を走り
ながら
云ふことには、
「美い鳥! 神様の鳥!
さあ、矢を射てあの鳥
神様の鳥を射当てたものは、一ばん
さきに取つた者は ほんたうの勇者ほんたうの強者だ
ぞ。」
云ひながら、昔貧乏人で今お金持に
なつている者の
子供等は、金の小弓に金の小矢を
番へて私を射ますと、金の小矢を
私は下を通したり上を通したりしま
した。

 幸恵が金田一と出会ったのは大正七(一九一八)年夏。そのころ幸恵は北海道登別の生家から離れて、旭川の叔母金成マツ宅に住み、旭川区立女子職業学校で学んでいた。
 アイヌ神謡の採取で旭川の金成宅を訪れた金田一は、初めて会った幸恵に対し、祖母モナシノウクや叔母マツは優れたアイヌ神謡の語り部であり、神謡こそ貴重な口承文学である、と語る。  幼いころからアイヌ民族ゆえに差別に悩まされ続けてきた十六歳の幸恵は、その言葉に涙を流して感動し、神謡を文字に書いて伝えようと決意、金田一に伝えた。
 以来、幸恵は祖母や叔母がアイヌ語で語る神謡を、金田一から送られたノートにローマ字で書き取る作業を続けた。だが幸恵は心臓病を病んでおり、日を追って次第に悪化していった。


(後略 構成・編集部)
(ごうだ・いちどう/ノンフィクション作家)