2010年06月01日

『機』2010年6月号:大西瀧治郎 合田一道

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敗戦を迎えて
 太平洋戦争末期の昭和二十(一九四五)年三月、日本軍は乾坤一擲、飛行機ごと敵艦に体当たりする特攻作戦に踏み切った。この肉弾作戦はアメリカ軍を驚かせたが、戦果ははかばかしいとはいえなかった。その挙げ句、日本は同年八月十五日、ポツダム宣言を受諾して敗戦となる。
 特攻作戦を発案し、実行に移した中心人物とされる海軍軍司令部次長大西瀧治郎中将は、最後まで徹底抗戦を主張したが容れられず、天皇陛下の玉音放送の翌十六日、官舎内で腹を切った。
 急報を聞いて軍医が駆けつけたが、大西は血みどろになって、「生きるようにはしてくれるな」と言い、腸が露出したまま耐え抜いた挙げ句、数時間後に絶命した。

残されていた二通の遺書
 遺書が二通残されていた。一通は疎開先の妻へ、もう一通は海軍の特攻隊の戦死者の御霊と遺族に宛てたものだった。


  瀧治郎より淑恵殿へ
  一、家族其の他家事一切は、淑恵の所信に一任す。淑恵を全幅信頼するもの
  なるを以て近親者は同人の意志を尊重するを要す
  二、安逸を貪ることなく世の為人の為につくし天寿を全うせよ
  三、大西本家との親睦を保続せよ。但し必ずしも大西の家系より後継者を
  入るゝの要なし


  之でよし百万年の仮寝かな


   遺 書
  特攻隊の英霊に曰す 善く戦ひたり深謝す
  最後の勝利を信じつゝ肉弾として散華せり
  然れ共其の信念は遂に達成し得ざるに到れり
  吾死を以て旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす
  次に一般青壮年に告ぐ
  我が死にして軽挙は利敵行為なるを思ひ
  聖旨に副ひ奉り自重忍苦するの誡ともならば幸なり
  隠忍するとも日本人たるの矜持を失ふ勿れ
  諸子は国の宝なり 平時に処し猶ほ克く特攻精神を堅持し
  日本民族の福祉と世界人類の和平の為最善を尽せよ


海軍中将 大西瀧治郎 


(後略)
(ごうだ・いちどう/ノンフィクション作家)