2010年04月01日

『機』2010年4月号:改宗者クルチ・アリ 和久井路子

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十六世紀地中海を制覇した男
 この小説は、新大陸発見やマジェランの世界周航直後の十六世紀、ブローデル『地中海』、パムク『わたしの名は紅』の舞台となった時代の、海を住処とし、海における自由を至上のものとした男たちのロマンである。
 主人公クルチ・アリは、本名ジョヴァンニ・ディオニジ・ガレーニ、イタリアの長靴の先端にあるカラブリアで一五一九年頃に生まれた。十六歳で海賊船にさらわれ、奴隷としてガレー船の漕ぎ台に繋がれたが、船主に賢さを見込まれ、船を任されるようになる。イスラムに改宗した後は、地中海で勇名を馳せ、副将を務めたレパントの戦いでは司令官の蒙昧と頑迷ゆえに敗北を喫したが、生き延びた船をかき集めイスタンブルに戻り、翌年には戦力をほぼ復活させた。アレキサンドリア藩主、アルジェリア太守を経て、最後にはオスマン帝国海軍の最高位である提督の位にまで昇進する。一五八七年に没するまでの、彼の波乱に満ちた生涯が、本書(『改宗者クルチ・アリ』)の縦軸である。
 彼の知力と勇猛ぶりを脅威とみなしたスペイン、フランス、教皇庁、またイタリアの都市国家ヴェネツィア、ナポリ、ジェノヴァなど西洋諸国は、様々な懐柔策を試みたとされる。ローマ教皇は何度か、爵位やサレルモ公国の提供を条件にカトリックに戻るよう申し出たが拒否される。
 晩年にはイスタンブルで、大建築家スィナンにモスク・公衆浴場・学習所を含む複合施設を建てさせることを思い立つ。当時、モスクを建造する土地はスルタンから拝領したが、「海の覇者なら海に建てれば……」といういやみを聞くと、イスタンブルの大トプハーネ砲製造所に面した海を埋め立てた出島に建造させた。ビザンティン建築の最高傑作であるアヤソフィアを模した、そのクルチ・アリ・パシャ・モスクは、小アヤソフィアと呼ばれ、海の中に燦然と輝いたと文献は記す。一五八七年の完成後、度重なるイスタンブルの大地震を経た現在も、びくともしていない。十六世紀トルコのモスクで、本体が修復されていないのは唯一これのみである。

改宗者に支えられた「帝国」
 著者オスマン・ネジミ・ギュルメン(一九二七―)はパリ在住のトルコの作家で二ヶ国語で作品を書く。彼は、歴史が記すのは人物の功績のみであるとして、彼らの心のうち、内面の世界を書きたかったと言う。とはいえ、原書の巻末の参考文献一覧が示すように、膨大な文献を渉猟し、正確な史実に基づいて書かれている。
 たとえば本書では、陰謀渦巻くオスマン帝国の宮殿内部や、かのセルバンテスがレパントの海戦で捕虜となりイスタンブルに連れてこられたこと、スエズ運河完成の三百年前にクルチ・アリがスエズ運河開鑿を計画したが讒言により出航寸前に中止させられたことなど、数多くの興味深い逸話が語られる。また、ヨーロッパの宗教裁判や教会の弾圧に追われたユダヤ人やムスリムが、スルタンの土地に信教の自由を求めたという記述は、近代トルコがナチから逃れるユダヤ人に門戸を開いたことを想起させる。
 実際、一四五三年のコンスタンチノープル征服後、ウィーンに迫り、バルカン、北アフリカ、中東を含む大帝国を築いたオスマン帝国は、異なる宗教を信じる多くの人種からなり、その支配の最高位にあったスルタンは同時にイスラムの宗主でもあったものの、住民はイスラムを強制されず、納税すれば他宗教の信者であることが許されていた。さらに、イスラムに改宗した者にはトルコ人とまったく同等の出世の機会が与えられ、軍の司令官、大臣、大宰相になった者も少なくない。
 海軍提督に登り詰めたクルチ・アリを初め、数多くの「改宗者」が活躍する本書は、オスマン帝国の最盛期を支えた「改宗者」たちの、優れた群像劇ともなっている。

(わくい・みちこ/中東工科大学〔アンカラ〕現代諸語学科勤務