2007年12月01日

『機』2007年12月号:ジャック・デリダへのオマージュ  A・バディウ

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哲学的世代の終結である
 1980年にサルトルが亡くなった。彼の前にメルロ=ポンティが亡くなっていたので、その時われわれは、フランス哲学50年の終結を迎えたことになる。すなわち、戦争と抵抗運動の30年代の終わり、共産党との関係という胸の疼く問題、反植民地戦争の50年代の終わりである。
 80年代にはラカンとフーコーが相次いで亡くなった。そして90年代にはアルチュセール、リオタール、ドゥルーズが。
 そして今、ジャック・デリダが亡くなった。これは、もう一つの終結である。すなわち、60年代を特徴づけてきた哲学的世代の終結である。この世代は、おそらくとくに1962年から68年にかけての激動の5年間、つまりアルジェリア戦争の終焉と68年から76年の革命の嵐の間の期間に、一番多くの著作を「書いた」世代である。たんなる短い期間だが、本当に閃光のような期間だった。
 そして今、この時期を特徴づけてきた哲学的世代は、ほとんど完全に姿を消した。もはや引退した後見人、きわめて高齢の冷静で誉れ高い人物しかいない。すなわち、もはやクロード・レヴィ=ストロースしかいないのである。

歴史的署名の死
 ジャック・デリダの死によって、何かに「署名した」ことのある人々の死が終わった。歴史的署名の死、一時的署名の死である。そして私がもちえた最初の感情は、もちろんこのように署名された歴史的時間が消滅したという今なお印象的な確認を除けば、勝利の感情ではなかった。私はこう独りごちた、「今や、われわれが年寄りなのだ」。
 では、われわれとは誰か。もちろんそれが意味するのはまさに、亡くなった人々の直接の弟子だったわれわれのことである。63年から68年までのこの時期に20歳から30歳の間だったわれわれ、この教師たちの授業を熱心に受けたわれわれ、彼らが老いて亡くなっていくにしたがって年長者になったわれわれである。年長者とはいっても、彼らと同じ資格においてではない。彼らは今私が述べた時期の署名者だったからであり、現代はおそらくいかなる署名にも値しないからである。われわれは年長者になったが、その青年期の実態は、この教師たちの言うことに耳を傾け、彼らの書いたものを読み、彼らの命題を昼夜論じていただけだった。

60年代の署名者全員に賛辞(オマージュ)
 ここで私は、皆さんの前に年寄りとしての姿をさらしている。そして年寄りは、不幸にも早く亡くなったすべての人に、例外なく賛辞を送らなくてはならない。なぜなら、こうした人々の多くが、本当に歳老いて亡くなったわけではないからである。60年代、つまり私が語っている時期の人々は、唯一ラカンを除いて、75歳を越えなかった。したがって、亡くなったすべての人々、またそのせいでわれわれが年長者となり、私が年寄りとなったすべての人々に、讃辞を送らなければならない。われわれは、彼らの精神的庇護の下にいた。もはや彼らがわれわれに庇護を申し出ることはない。われわれは、もう彼らの声の偉大さによって現実から切り離されることはない。
 したがって私は、突然亡くなったばかりのジャック・デリダに、そして彼を通して彼ら全員に讃辞を送りたい。60年代という偉大な時期の署名者すべてに。実際、彼ら同士の違いがどれほど大きく、また彼ら同士が頻繁に、とりわけ68年5月以後どれほど激しく争ったとしても、今日、いかに彼らが例外的な思想的時期の共同署名者であったかは誰の目にも明らかである。彼らより上だと称していた多くの人々が衰退していくなかでのことだが。だからといって意見の相違が消えるわけではないが、彼らが語ったことや書いたことについての新たな理解を通して、全員に、そして一人ずつに、新たな讃辞を述べることはできる。(後略)

(Alain Badiou/哲学者)
※全文は別冊『環』⑬に掲載(構成・編集部)