2007年09月01日

『機』2007年9月号:母の本心 石牟礼道子

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天草をどう考えればよいか
 島原の原城といえば、私にとってはただならぬところである。
 年寄り、女子供を含めた三万もの一揆勢が原の古城に立てこもり、幕府軍十二万を迎え討って全滅した。幕府は、女子供といえども一人残らず撫で切りにせよと命じた。天草の人々は半減したと記録は伝える。
 いったいどういういきさつで、ただの民百姓たちが、はるばるやってきた幕府軍を迎え、最後まで屈しなかったのか。邪教を盲信する百姓ばらとあなどられていた原の城を落とすのに近代兵器が持ちこまれた。鉄砲・玉薬等の責任者として着任したのが、鈴木三郎九郎重成である。彼は、事件終結後、亡地となった天草の復興を命じられて死者たちを手厚く弔い、寺社を建て、生き残りの島民が暮らしてゆけるよう田畑をよみがえらせた。
 この島のことをどう考えればよいか。どういう人々が生き残っていたのか。この人々に、鈴木重成はどう接していたのか。この島の貢租半減を願い出て切腹するまで、彼は天草の人々の何に魂をゆり動かされていたのだろうか。

母の「わが本心」
 わたしの父方も母方も天草である。切支丹ではなかった。何代も何代も隠れてきて、何を隠したのか思い出せない、というような身ぶりを時々みることがあった。
 あるときしのびやかな面持ちで母がいいかけてきた。
 「あのね、道子。自分が考えて、これが一番大事と思うことはね、つまりわが本心はね」
 「わが本心」などというむずかしげな言葉をふだん口にする人ではなかった。何か切実なひびきを感じて顔を見上げた。いつもの春風のようなゆったりした表情が消えている。
 「あのね、自分の本心ちゅうのはね、人さまには見せちゃならんとぞ、決して。語ってもならん。よかね」
 想い重ねてきて、これだけは言いきかせておこうというような声音でふいに言いかけてきたのである。誰かと言い争ったとか、何かをしでかしたという覚えはない。
 「うちにはね、納戸仏さまの、おらいましたがね、どこかにゆかれたごたる。家移りばかりしてきたもんで。
 道子が生まれた時の守り仏さまじゃった。納戸にね、大切にして拝みよった。人にいわずに覚えておこうぞ、大事な観音さまじゃけん、道子にあずかってもらおうね」
 説教がましいことなど一度もきいたことはなかった。よっぽど大切なことらしい。母はわたしをそっと抱き、
 「お姿はなかばって、み心ば、いただこうね。道子があやかりますように」
と言った。ふるえをおびた声音であった。
 「天草から、たしかにお連れしてきたとじゃけん」
 天草は流人の島であったから、わが家系はその子孫であるかもしれない。あるいは一揆の時、加わりそこねて山かげでふるえていた者たちの末孫かもしれない。とにもかくにも全滅した三万人の中にはいなかったので、今を生きているのである。

原城で死んだ人々の志とは
 母が一生に一度言った「わが本心」とは何だったのか。どういう人々が家を捨て村を捨て、原城に集まったのだろうか。少数ながら、もと武士たちがいた。「殿を見限った」浪人たちであった。
 わが母のような人もまざっていたと思う。父や祖父母や、わたしのような人間もいたことだろう。時代の心は今よりもやさしく、いちずであったろう。哀切である。そう考えた時、人々の姿がわたしの中に生きかえってきた。
 食べることを含めて、生きるということが希薄な時代になった気がする。原城で死んだ人々の志を読み解きたい一心でこの著に没頭した。