2007年08月01日

『機』2007年8月号:河上肇の遺墨 一海知義

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●近代日本を代表する詩人にして経済学者、河上肇の全遺墨を初集成!

「琴棋書画」
 「琴棋書画」という言葉がある。
 過去の中国では、7絃の琴を弾じ、囲碁を楽しみ、書を書き、画を描くという4つの事は、文人と呼ばれる人々の必須の教養であり、また資格でもあった。とりわけ書をよくすることは、学者、文人の風格を表わすものとして、尊重された。
 唐以前の文人の書は、あまり残っておらず、たとえば李白、杜甫の書を、現代は見ることができない。しかし宋以後の書、たとえば蘇東坡や黄山谷、陸放翁などの、文字通り墨痕淋漓たる書を、われわれは直接鑑賞することができる。
 学者、文人が書をよくするという中国の伝統は、わが国にも受けつがれた。江戸時代の知識人たちの必須の要件は、漢詩漢文が自由に読め、また自ら作れることだった。しかしそれだけでは、文人として尊重されない。「琴棋」は別として、「書画」をよくすることが、江戸の知識人たちのステータス・シンボルであった。その伝統は、時代の流れとともに徐々に稀薄になるものの、明治期の知識人にも受けつがれた。
 たとえば、江戸末期、慶応3年に生まれた夏目漱石(1867-1916)は、英文学者、作家として多くの論文や小説を書き残したが、同時にわれわれは彼の少なからぬ書画を、鑑賞することができる。

河上肇と書画
 漱石よりひと回り年下の河上肇(1879-1946)は、わが国にマルクス主義を紹介した経済学者として知られるが、彼もまた「文人」と呼ばれるのにふさわしい人物であった。
 河上肇は少年時代、友人たちと語らって手書きの同人雑誌を作り、自ら挿絵を描き、文字を墨書して、すでに書画の才の萌芽を見せていた。
 山口県の高校から東京帝国大学に進学して、経済学を専攻した彼は、やがて京都帝国大学に教職を得る。きわめて真摯で精力的な河上肇は、積み上げると自らの身長を越すと言われる多くの著書を刊行し、大学教授として多忙な生活を送っていた。そのため、書画の才を発揮する機会には、ほとんど恵まれなかった。ただ、ごく短い期間(大正末期)、風流を好む大学教授たちが、学部の枠をこえて集まり、画家津田青楓を囲んで、それぞれ書を書き画を描いて楽しむ「翰墨会」を、毎月開いたことがあった。
 それは当時の河上肇にとって、忙中閑を味わうオアシスであった。しかしそれも長くはつづかず、彼はやがて書斎から出て、社会活動に踏み込むようになり、生活は一層多忙となった。
 折りにふれて労働組合などに頼まれ、マルクスやジョルジュ・サンドの言葉を揮毫することはあったが、書画を楽しむ余裕などない、厳しい毎日がつづいた。

獄中期以降
 河上肇がようやく書画に親しむ機会を得たのは、皮肉にも彼が官憲に捕えられて自由を奪われ、獄中の人となった昭和8年(54歳)以後のことであった。
 彼は獄中で中国の詩人たちの多くの作品を読み、気に入った詩句を選んで、短冊や半截に墨書して楽しんだ。また自ら和語の詩や短歌を作り、これも墨書して残している。
 足かけ五年の刑期を終えて出獄したあとも、学者としての研究生活を禁ぜられ、やがて自らも漢詩を作るようになる。そしてそれらの作品を、色紙や条幅に書いて、知人から頼まれれば、これを頒った。
 本書はそれら河上肇の墨蹟を蒐めて、これに解説を加えたものである。
 私たちは、以前から河上肇の詩と書に傾倒し、03年、雑誌『環』(藤原書店刊)に、「河上肇の『詩』と『書』」と題して、彼の漢詩作品や和語の詩とその墨蹟を紹介する連載をはじめた。連載は6回で一応終えたが、読者の要望にこたえて、さらに多くの墨蹟を紹介すべく、本書の刊行を企画した。
 本書によって、河上肇の墨蹟をゆっくりと鑑賞していただきたい。

(いっかい・ともよし/神戸大学名誉教授)