2007年05月01日

『機』2007年5月号:国連に未来はあるか 池村俊郎

前号   次号


●半世紀続いてきた世界政治の構造――その限界と未来とは。

国連の基本理念を問い直す
 イラク戦争開戦をめぐる国連安全保障理事会の分裂を契機として、国連改革論議に加速度がついたにもかかわらず、長期に渡る政府間交渉で練り上げられた改革案は、2006年の討議を経てことごとく頓挫した。日本外交の宿願である安保理常任理事国入りも、安保理改革の不調で先送りとなり、外務当局などに深い失望感が広がっている。
 小泉首相自らが陣頭に立ち、新常任理事国の有力候補と目されるドイツ、ブラジル、インドと組み、今度こそと臨んだ改革論議の挫折は、各国の国益や思惑、ライバル意識が錯綜する巨大な国際機構の改革がいかに困難な事業であるかを知らしめてくれた。「日本が常任理事国になるなんて、絶対ありえないんです」と、悔悟と怒りの感情をまじえて私に話す日本の元国連大使経験者さえいた。
 翻ってみれば、改革の政府間交渉が始まって実に14年。東西冷戦の終焉をきっかけに本格化した改革交渉が実を結ばなかった意味は大きい。そこで改めて、創設時に比べ、加盟国数が四倍近い192か国(07年1月現在)に膨れあがった国際機構の存在意義を問い直す動きがある。それは政治世界のみならず、世界中の論壇で同様の問題提起が行われている。東西冷戦の終焉に加え、イラク戦争で突出した米国の一国主義によって、前大戦から半世紀を支えてきた従来の世界政治構造の限界が明らかになったからであり、その構造を前提に機能してきた国連の仕組みそのものと、屋台骨を支える基本理念や概念までもが問われるに至ったことを示している。

現実と理念の両面から
 このような時期に、政治哲学の専門家で国連大学教授として東京に滞在した経験をもつジャン=マルク・クワコウ教授の新著『国連の限界/国連の未来』が、藤原書店から翻訳出版の運びとなった。改革論に直面した国連に関する出版物は少なくないが、機構構造の諸問題に加え、基本理念に関する議論をいかに再活性化すべきか、国際機構の政治理念を根底からとらえ直した本書は、国連の未来を現実と理念の両面から考察できる視点を与えるユニークな内容となっているはずだ。
 本書のユニークさとは、国連事務総長スピーチ・ライターとして中枢実務に関わる実体験をもった上で、西欧の法哲学と政治思想に精通した著者が、国際政治のリアリズムが交錯する世界機構を分析した点にある。機構トップの演説草稿を担当するには、個別問題ばかりか、該博な知識に裏づけられた表現力を要求される。事態が刻々と動く国際情勢と、それに対する部内対応にも通じていなければならない。学者のもつ専門知識と理想論だけでは通用しない政治現場に立たされることを意味する。そうした実体験は、国際官僚機構としての国連が抱えた危機管理能力の欠陥を分析した本書の一章に見事に生かされている。

人権尊重のための国連
 国連を動かす基本理念は、いうまでもなく国家の行為主体論から法の統治論、人権思想に至るまで西欧で生まれ、鍛えられた近代政治思想であり、国連とは西欧近代思想の申し子といってよい。だからこそ、筆者が本書で明快に指摘するように、米英仏の西側主要3か国は国連を「自分たちの文化の延長ととらえる」わけで、それゆえ世界機構を創設したと自負する欧米3か国が、安保理常任理事国の拒否権に代表される既得権益を容易に見直そうとしないことが理解できよう。
 国連は広く知られる通り、国際連盟の失敗から教訓を学びとって世界平和を今度こそ守り抜く決意のもとで、前大戦後の46年1月、51か国が参加してロンドンで総会を開き、発足した。しかし、集団安全保障のアイデアとしては、それに遡る前大戦初頭、ナチ・ドイツが快進撃を続け、欧州大陸をほぼ制圧した時期に米英首脳が宣言した大西洋憲章(41年8月)ですでに示唆されていた。それは日本軍の真珠湾攻撃で始まる太平洋戦争開戦前のことであり、その時点で米英両国は大戦後の世界を考え、国連のアイデアを練っていたのである。国連とはそもそも前大戦の連合国、戦勝国連合の機構体であるという歴史事実が、このいきさつに明確に示されている。
 こうして創設され、機能してきた国連が東西冷戦の崩壊と、今度の03年イラク戦争によって、前提条件というべき国際関係と基本理念を根本から揺さぶられる事態に直面することになった。クワコウ教授の著書が対象としたのは、まさしくこの時期から現在までにあたり、とくに国連の平和維持活動の成否とともに、米国外交と国連の関係に、クリントン、ブッシュ両政権にまたがって簡潔かつ明晰な検証と分析を加えていく。
 それをたどれば、大変な成果という印象を持たれがちな90年代の平和維持活動が、実は失敗事例の方こそ多く、また、イラク戦争が象徴するブッシュ米政権の一国主義によって米国と国連の亀裂が決定づけられた感があるのに対し、むしろクリントン政権時代に早くも両者の深いミゾが刻まれていたことがよく理解できるはずだ。
 教授がなぜ国連平和維持活動を重視するかといえば、それが本来、だれであれ、どこに住んでいようと、人々を対象とした「人権尊重の理念追求」の発露であるからであり、国境を越え、国家権利を制限してまでも人々の運命を担い合おうとする国際的連帯の礎と位置づけられるからである。「ほとんど不可侵のものだった国家権利が条件付きとなり、問い直され得る権利へと変化したことで、人権擁護で最低限の要件しか満たせない国々が最初に影響を被ることになるのだ」(本書第六章「国際的な法の統治に向けて」)。こうして人権尊重を出発点とし、国際社会全体が安寧を享受し合うために、国際社会を動かす基本理念や政治理念が一つひとつ洗い直され、その上で国連の役割が検討されていく。

国連の将来のカギ――米国
 もう一つ、国連の将来のカギとなるのが米国である。クワコウ教授はその点で、国際社会の諸国家にヒエラルキーの体系を認め、米国が頂点に立つことに必ずしも不信を抱かない。ただし、それが国際社会の平和と安定につながるかは、米国の責任の自覚や外交の見直しが必須条件と主張する。たとえ米国の持つ力が強大であれ、1か国で成し遂げられることに限界があるのはイラク戦争が証明した。イラク情勢で傍観者に置かれた国連だけでなく、米国単独の力もまた、国際平和の達成に失敗したのである。
 国連の未来を問い直す論議が世界にあると先に書いた。たとえば、国連事務総長特別代表としてイラクを始め、各地の紛争調停に活躍するラクダハル・ブラヒミ元アルジェリア外相が仏国際関係研究所(IFRI)編集の季刊外交専門誌『ポリティーク・エトランジェール』(06年冬季特別号)に、「国連は2034 年に生き延びているか」というタイトルで論考を寄せている。将来の国連と米国の関係を3つのシナリオのもとで考察し、国連の未来を論じたものだ。世界の論者たちのこうした論議を、国連を未来永劫の機構ととらえる必要はないとする知的試みの表れと理解するのは行き過ぎであろうか。

日本の国連外交の何が問題なのか
 本書は日本版向けに最後の1章を書き下ろし、国連と日本を論じる。安保理常任理事国入りできなかった日本は何をなすべきか。日本の国連外交の何が問題なのかを専門家の立場から指摘し、提言する。私は訳者として、この章まできてこう考えた。国連が求めているのはたんに安保理拡大とか、分担金のより公平な負担とか、国際官僚組織の効率化ばかりではないのではないか。西欧の近代政治思想の申し子たる国連は新たな状況への適応にもがきつつあり、国連がグローバル・ガバナンスの中心に立つために理念上の偉大なる脱皮を迫られているのではないか。日本やインドが常任理事国入りする日があるとすれば、その時、東洋アジアの思想や理念がともに持ち込まれ、国連の基本理念をさらに豊壌なものにしなければならないのではないか、と。
 アジア経済の台頭で世界のパワー・バランスは日々変化しつつあり、地球温暖化、テロの日常的脅威、食糧エネルギー枯渇など従来型の安全保障の枠組みではとらえきれない危機と脅威にも直面しつつある。だからこそ、国連が偉大なる脱皮を成し遂げて、グローバル機構として再活性化する日が望まれる。日本が途上国支援や平和維持活動を支えていくだけにとどまらず、国連に理念的な貢献も求められていると考えれば、国連の未来への関わりを狭くとらえる必要はないのだと思えてくる。その出発点として、クワコウ教授がつまびらかにする現在の国連が抱えた限界点を徹底的に読み解いておきたい。

(いけむら・としろう/読売新聞社調査研究本部主任研究員)