2007年05月01日

『機』2007年5月号:「公共の道」に貫かれた後藤新平の仕事 御厨 貴

前号   次号


●その全体像をコンパクトに明快に示す!

「調査」が基本
 後藤新平は「先見性」と「広大なビジョン」を持ち、100年先を見通した「先駆的」な仕事をしていたといわれます。
 同じ東北の岩手から、一歳違いで原敬が出ています。後藤は水沢藩で、原は南部藩でしたが、この2人を対比すると近代日本を考えるうえで非常に面白い視点が出てきます。原敬の場合は、ものすごく薩長に対する対抗意識を持っていて、それでスタートをしたわけですね。それに対して後藤の場合は、生まれついてコスモポリタン的な要素が非常に強く、従来からの因習にとらわれない。何か事を始めるに当たって、きちんと土台になるものを「調査」して、その現実から方向性をつくり出していく。
 彼が衛生局時代から調査をやっていく場合に、それは「科学的」調査ですね。そこに宗教とか迷信とかはないわけです。そのことによって彼は、衛生局長としてほかの人とは非常に違う面を持ち得た。医学を使っても、その医学の中に閉じ込められない。むしろ調査をやっている間に、彼の持っている潜在的な力が、専門性に封じ込まれないで広がっていったと言えるのではないでしょうか。

調査に基づいた台湾統治政策
 1898年に台湾の民政長官になったときも、最初に「旧慣調査」を行なって、それに基づいて政策を立案しようとする。そこにあるものが何であるかを見ない限りは、こちらからいくら新しいものを持ってこようが、それは絶対に中にきちんと入っていかないという。その点では、非常にソフトであって、まず人の言うことを聞くということである。
 いわゆるアヘン漸禁策にしても、一挙に禁止するのではなくて、現実との妥協の中で少しずつ禁止にしていく。けれども貿易で使うところは使いながらやる。現実主義者であり、かつ理想主義者であるということが言えると思いますね。

1906年に満鉄初代総裁に就任し「文装的武備論」を打ち出します。
 台湾でのソフトな政策のあり方の延長線上に出てくる話だと思います。明治日本のスローガンは、ずっと富国強兵だったわけですね。それは、もう日露戦争でひとまず終わったのではないかという意識が後藤にはあったんだと思います。これからまた新しい開拓、新しいやり方で動かしていかなければいけない日本であると。そこでやはり対外関係をソフトランディングできるように、まさに「文」の方でまかなっていかなければいけない。平和的な対話で外交をやる、それこそが知恵だということですね。

頭のなかの地球儀
 1902年初の欧米視察でアメリカ合衆国を見て、わずか五年たたない中、ユーラシア(旧大陸)と新大陸を対峙させる発想を持った。
 彼の頭の中には「地球儀」があるんですよ。普通の人だったら平面で見ているけれども、彼は立体で見ている。アメリカを見て、やはりこれは違う、これから何か大きな一つの文明をつくっていくものであると彼は認識したのだと思いますね。世界の全体の広がりの中で見て、それからまた日本から見て、そういう一種の複眼的な思考ができる。
 1909年か10年ぐらいにドイツのハンザ同盟に注目したり、ドイツに留学したときには、ビスマルクの外交術も学んでいる。ドイツというのは小さな国が集まった国家ですから、国境を越える発想がある。
 彼がやってきた施策は一部、後進の帝国主義的な施策ではあったけれども、やはり帝国主義国家を乗り越えたかったんでしょう。「新旧大陸対峙論」と言ったときに、そこにあるのはユーラシアとアメリカです。つまり、既に国境を越えた存在として陸地があって、その陸地の間に広い海があって。国境というものをとりあえず取っ払ってみて、何ができるかを考える。その視点が、多分ほかの仕事にもつながってきています。

「公共」の精神の発露
後藤は、資本主義が高度化するなかで重要になってくる「交通」「医療」「教育」という3つの「公共」の仕事を、全て行なっている。
 1908年の第2次桂太郎内閣で逓信大臣兼鉄道院初代総裁になりますが、そこでも単に鉄道を引くとかではなくて、その裏に公共性の精神があった。それは国境を越えて世界に広がっていくということですから、やはり日本の鉄道は広軌でなければいけないと思ったわけですね。広軌改築論は政策論争としては敗北して、その実現は後藤の薫陶を受けた総裁十河信二による、六四年の東海道新幹線開通まで待たなければなりません。しかし後藤にとって、本当に広軌が日本にとって必要かどうかというよりは、精神において広軌でなければいけないわけですよ。日本国内の利益だけのことを考えて、あるいはもっと狭く地方利益だけを考えて、原敬のような狭軌の路線で行くということは、彼にとってはやはり許しがたいことであった。
 そこから、彼がどうして政党政治を否定したかという話とつながってくる。政党政治というのは、薩長の連中から見れば、あれは薩長藩閥に対抗する「私」的な党であり、個別利益しか反映していない。その政党に国政を任せられるかという見方が薩長の連中にはある。後藤は後藤で、いま言ったように全体的な公共の精神とか、全体的な文明の利益の推進から考えたときに、やはり政党は容認できるものではなかったということですね。


東京市長のときには、環状道路とか100メートル道路といった計画を打ち出しています。
 政治家がふつう考えているのは、自分のときにどう実現するかということですけれども、多分後藤の発想には、自分が死んだ100年先、何世代かしたときに実ればいいというぐらいの射程距離の長さがある。悲しいことに、日本の近代を指導した薩長にも、それから後に出てきた政党政治の連中にもそういう発想はない。今どう実現するか、「現世利益」ですから。

放送の公共性
 後藤新平はNHKの前身である東京放送局の初代総裁を務めていますね。
 「放送の社会的役割」ということを彼は言った。電力事業についても彼はそうだったわけですが、放送についてもそうだった。ところが電力についての彼の仕事が早くも政党政治に蹴散らされたのと同様、放送の場合、戦後放送の許認可権を握っている郵政大臣としてこれを全部利益に使ったのが田中角栄です。田中角栄は郵政大臣のときに許認可権を使って全国の放送局から金集めに成功して、それ以来郵政は全部田中派のものになった。だから公共性もへったくれもないわけです、そこから後は……(笑)。

私益を超える衛生・教育の思想
 2つ目の「医療」の面については……。
 後藤が児玉源太郎から与えられた重要な仕事に、日清戦争の後の復員兵の検疫事業があります。元々医者ということもありますが、感染症対策にも重要な仕事をしている。つまり社会衛生なんです。彼は衛生局長の時代にも、医者の利益を守ろうとはしなかった。多くの衛生局の人間は医者との関連が強いですから、医者というプロフェッショナル集団との関係でしか考えないけれども、彼はやはり社会との関係で考えていた。

それは、3つ目の「教育」にもつながる。
 教育といったときに、彼の頭の中には旧帝国大学といったものは全くなく、恐らくそういうものではつくり得ない人材をつくりたかったのではないでしょうか。彼が初代総裁を務めた少年団日本連盟がまさにそうです。ある意味で言うと、いわゆる満鉄調査部だって、研究機関であると同時に巨大な教育機関ですよ。「通俗大学」という名前で、軽井沢や木崎湖畔に市民大学の前身もつくっている。晩年には「明倫大学」という、アジア諸国から先生も学生も呼んで、アジアに開かれた大学を作ろうとした。
 そこにぽっかりと抜けているのが何かといったら「帝国大学」です。「文部省立大学」ではだめだと。教育というのは、本当にやろうと思ったら私財を投げ打って自分の力でやらなければだめだというのを、彼は自ら命を賭けて示そうとした。 後藤新平は、最晩年の方が幸せだったのかもしれません。そういうところに行き着いたわけですから。

(みくりや・たかし/東京大学教授)