2007年04月01日

『機』2007年4月号:ハイデガーの盲点 Ph・ラクー=ラバルト

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●「偉大なるドイツ哲学」(ハイデガー)の起源としてのルソー

ルソーに対する片意地をはった盲目さ
 私が主張したいテーゼは、ルソーに対する片意地をはった盲目さがあるということだ。先入観、悪意、与えられる信頼の少なさ(他方でカントやヘルダーリン、さらにはシラー――彼らはみなルソーに依存しているのだが――を「啓蒙の精神」から、あるいは19世紀による誤解、とりわけショーペンハウアーによる誤解から引き離すことには、あれほど多大な努力が許可され展開されているというのに)、要するに読解の(「政治的」)拒否などといったことだけが問題なのではない。実際のところ、ハイデガーはルソーをちらと見ることさえしない。そして彼が垣間見ることさえしないのは、彼の歴史記述がそれを禁じるからである。しかも二重に。

ヘーゲルへの依存
 第一に、ハイデガーの歴史記述はヘーゲルのそれに非常に深く依存している。ヘーゲルの歴史記述は、〈近代的なもの〉の運命的転換を、デカルト的あるいはガリレオ―デカルト的契機(表象的確実性の設立、エゴ・コギトとしての主観に存在を同一化すること、自然科学となった自然学〔物理学〕の客観的数学化、科学技術のプログラミング化、等々)のなかに位置づける。思考のそうしたエポックにルソーが属することに異論の余地はない。肝心なのは、ルソーがそのエポックにのみ属しているのか、それとも、もっと秘められた紐帯によってプルタルコスやアウグスティヌスだけではない古代にも結びつけられているのではないか、あるいは、ルソーがその類例なき例となる「後退」はルソーを彼のエポックから決定的に引き剥がし、彼の思考の核心そのものを「エポケー」するのではないかを知ることである。

ヘルダーへの言及
 第二に、ハイデガーが〈近代〉の内部に認める唯一の運命的出来事は、ヘーゲル的発想のこの歴史記述においては、〈歴史〉の(ドイツによる)発明、そして歴史性に関する思考の、言い換えれば存在と真理との歴運的性格に関する思考の(ドイツによる)発明であるとされる。ハイデガーは繰り返しヴィンケルマン〔ドイツの美術史学者。主著『古代美術史』〕(彼のGedanken〔思考〕は第二『論文』〔『人間不平等起源論』〕と全く同時代である)とヘルダーに言及する。もちろんブルクハルトとニーチェに至るまでの全ドイツ観念論も援用される。しかしながらハイデガーが諸言語の起源について、そして諸民族の根源的詩作としての言語の本質について指導的理念を引き出してくるのは、ヘルダーからである。〈歴史〉に関する(あるいは同じことだが、起源に関する)この思考の原理にルソーがいること、ドイツ哲学全体からルソーがそうした存在として認められていたことなどは、一瞬たりともハイデガーの関心を引かない。ルソーは〈歴史〉の思考の発明には何のかかわりもなく、とにかく多分ルソーは「思考者」ではないのだ。
 この意固地な盲目状態――つまりこれがテーゼであるが――は、実際にハイデガーの盲点となるだろう。

(Philippe Lacoue-Labarthe/哲学者)