2007年04月01日

『機』2007年4月号:世界の後藤新平/後藤新平の世界 加藤陽子+木村汎+榊原英資+塩川正十郎+松田昌士+(司会)御厨貴

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いよいよ生誕150周年を迎え、 後藤新平の現代的意味を考える!

後藤新平から何を学ぶか
榊原 (後藤新平に)非常に感銘を受けるのは、やはりそのリアリズム、あるいは物事を実現することを常に考えていた非常に秀逸な政治家だと。私は、政治とか外交というのはイデオロギーではないと思います。イデオロギーを挟んだ途端に、だめになりますね。政治とか外交というのは、常にある種の透徹したリアリズムがなければいけない。後藤はそれを持っていた。それをいま我々は学ぶべきではないか。
 いまや時代は大きく変わってきていますね。やはり中国でありインドであり、東南アジアでありと、これが大きく世界経済では台頭してきた。ある種のアジア主義が出てきている。それに対する反発も出てきている。ですから私どもが後藤に学ばなければいけないことは、どうして日本のアジア主義が失敗したのかを検証しなければいけない。それを検証するためには、後藤というのは非常にいい、象徴的な存在だと思うわけです。やはりこれからのある種のアジアの時代に、どうして戦前我々が失敗したのか、どうして後藤が言うようなことができなかったのか。あるいは後藤が、それぞれの重要な局面で一体何を言っていたのか。後藤を通じて我々が今後アジアとどう対処していくのか。その場合にアメリカ、ヨーロッパとどういう外交を展開するのか、そういうことを後藤から学べるのではないかと考えています。

3Cからみる後藤の外交
木村 後藤の思想は、私はCで表現できると思います。バンドワゴンのBの根底には対立、闘争に基づく人生観(世界観)があると思います。が、後藤の国際関係を見る見方、あるいは認識は、多元主義的です。いかなる国も――たとえそれがどんな小さな国でも、中級国家でも、大国でも――、それなりに価値を持つ。
 最初のCは「コンフロンテーション(Confrontation)」。対立という側面は、どの二国間関係にも必ずありましょう。もう一つの関係は、「コンペティション(Competition)」。競争です。日本とアメリカの間でも、貿易戦争、繊維戦争ということがあります。競争のない関係はありません。三番目のCも、どのような国々の間にもあります。それは「コオペレーション(Cooperation)」のCです。冷戦のさなかでも、米ソは協力していました。穀物の輸出入などにおいて。いまでも国際テロリズムに対してはともに闘っております。したがって、時と状況の変化に応じて変わるのは、三つのCの単なる混ざり合い加減の違いにすぎない。そういうふうに見ることが、私は後藤の外交を見る眼の要諦だと思います。後藤新平は、「時代を先駆け、世界的な意義さえ持つ政治家だった」と結論することができると思います。

後藤新平は「戦後の人」
加藤 後藤は「戦後の人」なんだというのが私の考えです。日清戦争後、軍隊が帰ってきて病気が蔓延し、検疫をしなければいけない。台湾は日清講和条約締結後の1―2年が、一番反乱が起きて大変でした。そのときに後藤は民政長官として台湾の戦後を押さえた。では日露戦争はどうだったかといいますと、とにかく基盤が弱い権益、ロシアから受け継いだ権益をどうするかという植民地経営のときに後藤は満鉄総裁になるんですね。そのとき、満鉄総裁だけではなく、関東都督も一緒にやらせてくれとか、関東都督府顧問に任じてくれとか、台湾総督統府顧問にしてくれと後藤は要求します。満鉄総裁は、政党が変わるたびにクビが飛んでしまう。だったらむしろ、植民地を有効に統治するためには、内閣更迭とともに降任しないような制度にしてほしいと要求しています。後藤は、植民地開発組織をいわば統帥機関化したかった。
 こういう人が第一次世界大戦の戦後を運営するときに、どうふるまうのか。ふと困ったのだろうと私は思うんですね。つまり植民地というものを形式上は持てなくなる。このとき後藤は、外交とか世界戦略とかからちょっと解脱してしまったのではないだろうかなと思います。つまり三つ目の戦後、後藤はあえて戦列から離れ、国益ではなく社会を重視するようになったのではないか。大調査機関設置の儀を引っさげて原に会いに行きますけれども、このときに大事なのは、後藤が強い植民地機関をつくろうとしていたのではなかったということです。今後大事になるのは、外交よりも産業や社会とか、文化とか生活なのではないか。第一次大戦後は、社会、生活、文化にシフトが移ったのではないか。

偉大なるテクノクラートの業績
松田 後藤さんは水沢ですから伊達支藩ですよね、幕府方の。ですから明治維新になって、容れられざる民という抑圧された民なんです。そういう経緯を見ると、要するに権力を持っている薩長土肥は、明治政府といえども冷ややかなんです。北海道から大体東北の北部というのは、いまに至るも反骨精神の方が多いわけです。その冷ややかな感じというのを後藤さんは身につけていて、博士号もとらないとバカにされるというのでドイツに留学してとりましたね。そういう形でもって彼は非常に、一方で冷めた目で世の中を見るという習慣を持っておられたに違いない。やはり敗れた方は、冷ややかに現政府を見ている。ですからそういう気持ちは色濃くあって、冷静にそれを見るというので、例えば台湾で縦貫鉄道を引かれたり経営されたりやってる中に、テクノクラートとしての特徴が非常に強まったのだと私は思います。その冷静さですね、熱くなっていない。そしてそういう生活とそういう敗軍の民族の中で来ますと、そこの意識はそこにいる人たちを大事にして、それを乗っとろうとか何とかではなくて一緒にやろうという気になるんですね。本当はそこの後藤さんの最初の行動を心理学者が分析してくれれば、後藤伝というのはものすごくおもしろくなると思う。ですから彼は非常に、台湾にいたり満洲にいたりする、そのテクノクラートとしての光り輝くような業績を残している。

教養人としての後藤新平
塩川 そのときそのときの政治家は、30年、40年前の生まれたときの日本の文化、日本人の教養のいかんが後世において現れてきていると思って見ているんです。生誕150周年を迎える後藤新平さんなんかは、やはり徳川時代の儒学を中心としたしっかりした教養を受けていますね。また、その当時、藩校や私塾を中心に勉強したのだろうと思いますけれども、庶民全体が武力ではなくて、学問に非常に熱心であった。その教養が花咲いて、明治維新以降、日本が西欧に追いつき、追いこせの国政に進展していった。
 ですからその当時に出てきた伊藤博文、大山元帥だとか、新渡戸稲造とか、こういう人たちはそういう徳川時代のしっかりとした教養を身につけているから、考え方も非常にバランスのとれた、専門家ではなしにマルチな教養人として育ってきておる。
 ところが日清、日露に日本は勝った。勝った、勝った、日本はもう大国だというようなときに生まれた人たちが、これが大東亜戦争を指揮したんですね。こういう人たちはもう生まれたときから勝った、勝ったですから、政治家なり軍人で成功しても、それ行けどんどんでやってきた。それが私は満洲事変以降の、特に大東亜戦争に突っ込んでいったのだと思います。ですからあのときの大東亜戦争の指導者は、大抵明治20年、30年、つまり日本が隆盛のときにおなかに膨らんできたんですね。それを身につけて出てきていますから、こういう時代になったのだ。
 ですから私たちはこれから子供の教育というもの、次の少子社会を迎えてどうして優秀な人材を育てていくかということは、その人材は30年、40年後の日本に現れてくるんだということ、これを心して思わなければいけないなと思っておるのであります。

(さかきばら・えいすけ/早稲田大学教授)
(きむら・ひろし/拓殖大学教授)
(かとう・ようこ/東京大学助教授)
(まつだ・まさたけ/JR東日本相談役)
(しおかわ・まさじゅうろう/東洋大学総長)