2007年02月01日

『機』2007年2月号:子宝と子返し 太田素子

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●豊かな人間形成力をもつ、 江戸期農村の子育てを活写!


 近世日本は、基本的には皆婚社会で、人々が家職と家族生活とに執着をもてるようになった社会だった。そのため、家の継承と将来の生活保障という目的に方向づけられて、子育てへの責任意識と親子一体感の強い、濃密な親子関係がうまれた。山上憶良の和歌を引いた「子宝」という言葉がよく登場するので、この子育て責任意識と親子一体感の強い近世社会の子育てを、「子宝的子育て」と呼ぶ。
 子育てが「家の継承」に方向づけられていた点は、武士も町人も、本書で対象とする農村の子育ても共通だった。社会が安定しているあいだは、家職と家産を確実に後嗣に継承することが、祖先に対する責任と理解され、また自身の老後も含めて、家族構成員の生活と幸福を守ることにつながる、と信じられていた。実際に理想通り継承できた家がどれほどあったかについては懐疑的だが、そうした価値観が深く人々を捉えていた。
 後嗣にどのような資質を期待するか、いいかえれば子育ての目標という点では、階層によっても時期によっても違いがある。本書では当時の大多数の民衆を擁していた農村の子育てについて論ずることを課題とした。
 筆者が農村の子育て研究に従事した最初のきっかけは、実は「間引き」という言葉に驚きを感じたことからだった。それが集約農法の経験から生まれた言葉だとしたら、「少なく産んでよく育てる」といった優生学的な子育て意識が、すでに近世農村に芽生えていたのか、と驚いたのである。しかし、のちに検討するように、丁寧な子育てと子ども数の制限は、今日の少数精鋭主義に比べると、少し間接的な関係にあるようだ。また、近世農村の人々は「間引き」という言葉より「子返し」「押返し」という言葉をより多く使うが、子返しをめぐる言説は、文明化とか生命観の近代化と呼ばれるプロセスを、人々が試行錯誤の末に経験したことこそが重要なのだ、と考えるようになってきている。
 本書では例えば、日記に記された子どもと家族の生活記録に着目した。近世前期東北の豪雪地帯、奥会津地方に生きた在郷商人角田藤左衛門の日記『萬事覚書帳』と、幕末の播州平野、温暖かつ河川交通にも至便な揖斐川沿岸の豪農、永富定群の著した『高関堂日記』という、対照的な在郷商人の日記から、子育ての慣行や習俗、子どもに向けられた眼差しの特質を追求した。
 二人は、同じく農民的な商人だとはいえ、生きた時代も地域も対照的であった。藤左衛門日記は自らの「子返し」を記した日記として貴重で、子どもへの情愛も深い藤左衛門が、必要とあれば断固として嬰児殺しを選びとった判断の背景を探る。一方『高関堂日記』においては、豪農が地縁を血縁化してゆくネットワーク形成に、子どもが大きな意味を持っていた。このように、江戸時代二六〇年の農村社会の子ども観と子育て意識について、両者に共通する子宝意識と子どもへの関係のもち方を明らかにし、近代の子育てにとって有した意義を考究した。
 こうした地味な作業を長く続けてこられたのは、東京生まれの私が、人生の盛期に一七年間地方暮らしを続けたからではないかと思う。地域社会の暖かい人情味と強さ、子どもに対する包容力と頑固な同化主義、勤勉な生活習慣と尊敬に値する努力体質。日本社会が失いかけているこれらの資質が、何に由来するのか確かめたかったのだろう。
 「子宝的子育て」は、子どもに対する共感的な理解力に富んでいる。今日の厳しい競争社会に負けない、あるいは価値多様化時代にふさわしい共感能力の根は、どうしたら再構築できるのだろうか。消えつつある「伝統」文化を手がかりに考えてみたいと思っている。


(おおた・もとこ/埼玉県立大学教授)