2007年01月01日

『機』2007年1月号:ブルデュー社会学への招待 ピエール・ブルデュー/L・ヴァカン

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●巨人の思想を一望し、その仕事術のすべてを明らかにする!


 本書は、シカゴ大学でロイック・ヴァカンの指導のもと、一学期間にわたり私の研究についてセミナーを開いていた社会学、人類学、政治学専攻の博士課程に在籍する学生グループとの出会いをきっかけに生まれた。一九八八年春にシカゴを訪れたとき、私には質問、意見、反論の長いリストがあらかじめ手渡されていた。それらはかなり細かな点におよび、正確でよく調べられたものばかりだった。とても温かい雰囲気のなか、私の目にも私の研究の最も根本的な問題と思えるものについて、われわれは「膝をつきあわせて」議論した。質問をして回答するというゲームはそれからも続き、シカゴならびにパリで、数カ月にわたって、インタビューや対話の形式を取りつつ、このやりとりは増えていった。
 その記録をまとめて本にしたら、との話が最初にもちあがったとき、当初私は決断がつきかねた。なかば即興でしゃべったことやじゅうぶん形になっていない思考を活字にするのは、自己満足の思い上がりではなかろうか。しかしその一方で、長いこと私の頭にあったが相矛盾する制約のために解決法がみつけられずにいた問題、私の研究の核心にある目的と研究成果を見渡してもらうにはどうすればいいかという問題を、とりわけヴァカンの編集作業や脚注のおかげで首尾よく解決できるのではないかとも感じた。
 私への質問は、あらゆる方面にわたる重大な反論や批判を提起していた。アメリカ社会学の最先端の成果と友好的に向かい合えたことで、私はフランスの知的文脈の特殊性のおかげでこれまで暗黙の仮定として放っておくことのできた諸々の前提を説明し明示化することを強いられた。それは私にとって、己れの研究の理論的目標をじゅうぶんにさらけ出す機会でもあった。滞米中さまざまな大学で行った論争、自己満足や攻撃性を排した、つねに遠慮のない、しかも知識に裏づけられた論争は、私にとって自分自身の仕事を反省するための途方もない刺激を与えてくれたのである。
 本書は三つの独立した、相互に補完し合う部分に分かれている。部は解説、部は分析、部は社会学的トレーニングのためのより具体的な問題から出発する。
 部は、ブルデューの知的世界の輪郭と、知識、実践、社会についての彼の理論構成とを略述することで、ブルデューの研究のより広い統一性とその内部連関とを理解する鍵を提供する。部(シカゴ大学セミナー)では、対話の進行に沿ってブルデューが自らの研究活動の主なねらいを明らかにし、省察を加えていく。それぞれの章ではこの二十年間に刊行された著書の主要な成果に検討が加えられ、それらの成果のなかで実現された認識の移動の数々が明らかにされる。部(パリ・セミナー)は、一九八七年十月に社会科学高等研究院における研究者対象の演習で、ブルデューがおこなった導入的講義を文字に起こしたものである。
 真に革新的な、生成的な思考法の証のひとつは、新しい命題を生み出すために最初の言明が属していた知的文脈や経験的領域を越えていくブルデューの能力にあるだけではない。同時に自分自身を思考する能力、思考において自分自身を乗り越えていく能力のなかにある。ブルデューの研究は矛盾、空白、緊張、謎や未解決の問題を免れているわけではない。それらの大半は本書の発言のなかで公然と認められ、ときには強調されることさえあるだろう。いずれにしてもブルデューは、社会学的省察や実践を規格化したいという衝動とは無縁なのである。
 ブルデューと共に思考することへの誘いは、もし必要とあらばブルデューを越えて思考すること、ブルデューに反対して思考することへの誘いでもあるのだ。

(Pierre Bourdieu & Loic・ J.D.Wacquant/社会学者)