2006年05月01日

『機』2006年5月号: 石牟礼さんの内から発する妙音 志村ふくみ

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 数ある石牟礼さんの作品の中から、なぜ『十六夜橋』と口にしてしまったのだろう。何か身の内の奥の方へじーんと浸みてくるものがある。物語は自分の外界にあるはずなのに、何故か自分の内部に入りこんでしまったようだ。酔のさめないまま、今、三回目を読み終ったところだ。まず、何より酔をさまさねば……。

あらぬ世に誘なう『十六夜橋』
 私がはじめてこの物語を読んだのは十年ほど前、京の北の山の中でひとり暮しをしている時だった。来る日も来る日も渓流の音と共に物語の中にいた。その時聞いていた音楽が、一頁毎に浸みこんでいる。今再び、一度、二度、三度とこの物語の奥へと身をおく時、語る言葉を失って、“花の散りぎわ、夢のうち”などとぼんやり呟いたりしている。書かねば……と身をひきしめて再び頁を繰るや、いつしかその細部にまで光が射し、作者の冴えた彫琢の鑿のあとが鮮明にみえてくる。一層、二層と、掘り下げ、深められ、ようやく築き上げられた物語の全貌と部分がつかめたかと思うあたりから、この世の足場がすーっと消えて、あらぬ世に誘なわれてゆくようだ。
 作者は、架空の世界からみちびき出す想いの糸を練り上げて、現実の矛盾、重圧に耐えて絞り出すように描きこんでゆくのであろうが、石牟礼さんは、堅固なこの世の骨格をあぶり出しつつ、異次元へと人をさそいこむ高度な妖術、いえ、秘術を持ち合せていられるのだろうか。

一人一人の人物の言葉の格調の高さ
 十年前、そして今八十歳になって再度、この『十六夜橋』をよみかえすと、今更のように胸がいたい。どんな仕事をしてきたであろうかと。小説は一度読んだらおしまい、というのもある。読めば読むほど引きこまれてゆくものもある。この小説は、地中の見えないところが次第に浮び上り、まだまだ読み足りない気がする。何度でも読みたいのだ。それは文章が生命をもっていて、ひとりひとりの人物の言葉が、何と格調たかいことだろう。とても現代の人間の真似のできないもの言いの品格、美しいとしかいいようがない。この地方の方言というのか、人を人が尊び、敬いつつ生きている。どの会話をとっても、古木の立派な葉のような、渚の波にあらわれた貝殻のような、ゆるぎない格調をもっている。石牟礼さんの文学が、今の世に類い稀なのは、霊力にも近い見えざるものの言霊をみちびきよせ、その背後にあるものと全く一体になって綯いまざってゆく生命力のたしかさである。年齢をかさねてふたたびこの物語に出会った時、私の中で確実によみがえり、芽生えたものがあるような気さえする。人間は年老いても吸叫したい欲望をおさえることができないのだろうか。

石牟礼さんの内から発する妙音
 私は体調を崩して以来、本を読むことができなかった。ごく些細なことで胸が遣られ、今の時代の惨たらしさに耐えられず、テレビも新聞もみられなかった。ようやく一年ぐらい前からぼつぼつ恢復し、本を読むことができるようになったが、まだ本格的な小説をよみこむことができなかった。しかし、解説をかくなら『十六夜橋』などと思わず口走った手前、思い切って再度、『十六夜橋』を手にした。思いがけず、私は思いきり没入してしまった。それはいくらか恢復したきざしであるかもしれないが、石牟礼さんの内から発する稀なる妙音に魅入られてしまったのだ。くしくも水俣から誕生した『苦海浄土』は、石牟礼さんの筆をとおして、人類の直面した苦難を世界に知らせ、「不知火」の能演では、ただならぬ領域にふみこんでゆく霊鐘を打ちならしひびかせた。
 そして今、石牟礼さんの全集が出版されようとしている。何か重い、暗い大きなものを真摯に、私自身の中でどれほど受けとめることができようか。


(しむら・ふくみ/染織家・人間国宝)
※全文は『十六夜橋』に収録(構成・編集部)