2006年02月01日

『機』2006年2月号:ハンセン病とともに 岡部伊都子

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ハンセン病に出会う
 わたしは、ハンセン病にたいする日本社会の残酷な仕打ちを、青松園(香川県)の吉田美枝子さんのおかげで知りました。吉田さんから学んだことは、いっぱいあります。わたしが生まれて三年目ぐらいには、すでに京都大学の教授でいらした小笠原登さんという先生が、「らい」菌は結核菌にくらべて、感染しない、だから隔離する必要はない、おいえで家族と暮らしながら養生して、食べて、ちゃんと働いていくことができる、そういうふうにきちんと学説を発表してはったのですね。
 なのに、日本政府は、その隔離する必要はない、病菌は弱いという学説を取り上げずに、光田健輔さんらの説にもとづいて、かかった人を強制隔離して、人の目からはずすという方針をとったんや。
 そのような「らい予防法」をつくってしまったんですよ。仲良しの家族から離されて、名前まで替えさせられてな。たまに患者さん同士で結婚なさる方がおられても、子どもがでけへんようにさせられた。患者さんや家族たちは、どんなにか、どんなにか無念やったと思いますけどな。
 あれから、なんべん行ったかな、青松園に。そのたびに、結核も、ハンセン病も、精神の病気も、ぜんぶわたし自身の病気だと思うていましたよ。

患者さんと仲良く
 吉田美枝子さんのおかげで、国の悪やら人間の真実やら考えさせられたですね。いまでも先入観をもって毛嫌いする人たちが、たんとありますがな。ちっとも、解放されていません。せやけど、苦しんでいる人たちを解放しなんだら、いわゆる健常者・一般者も解放されないんだよ。
 苦しみからの解放は、被差別者・差別者ともに解放されないとだめ。ともに仲良う生きていかんとあかん。かわいそうとか、憐れみはだめ。その人の苦労に敬意を表さなくてはだめ。同情とは、ぜんぜんちがいまっせ。
 元患者の方がたは、たたこうてはるから、書かはることも、創らはることも、真剣や。文章にしたって、短歌にしたって、ええ仕事をしたはりまっせ。作品に打たれる。それはもう、幸せな人にはない歌。一般社会の人にはつくれない歌でっせ。ありがたいよ、そういうお方たちと仲良うでけて。

人間とは……
 1996年に、ようやく「らい予防法」が廃止になって、厚生省が詫びよった。国が間違っていましたと言うて。そのときに、全国のハンセン病の療養所から、出られる人は出て、その予防法をやめたという喜びの集会が、本願寺の大谷派の集会場でありました。わたしも行ったら、知っている顔がようけあって、うれしかったな。一言なにか言えと言われて、ちょっとしゃべったけどな、美枝子さんをはじめ、この「らい予防法」がやめになるまでに、どれだけ大事なお人が死んだか、腹立ってな。
 わたしが療養所へ行ったら、みなさんが案内してくれはるやろ、そして、みんなで集まって、お酒飲んで、踊ったりしてくれはるでしょ、こっちも歌をうたうでしょ。だから、ほんまにほんまに、お友達やもの。
 そら、どれだけハンセン病を出した家族を差別してきたか、その家族がまた、自分の子どもやきょうだいを療養所へ追い出したか。人間て、そんなもんやないと思うのやけどね。

(おかべ・いつこ/随筆家)