2005年10月01日

『機』2005年10月号:いま、なぜサルトルか? 編集部

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 本年は、フランスの作家であり思想家であるジャン=ポール・サルトルの生誕百年にあたる。第二次世界戦後から1980年ごろまで、日本のみならず、世界全体に対して大きな影響を与えたにもかかわらず、単なる受容紹介がその当時に行われたのみであり、サルトルという巨人が私たちにもたらしたものは何であったのか、という根本的な問いかけは日本ではほとんど行われることがなかった。
 今年はまたサルトルの死後から二十五年でもある。つまり、その死後、四半世紀がすぎたわけだが、その間、日本ではそれまでの反動のように、サルトルは徹底的に否定されてきた、あるいは、無視されてきた。 しかし、その間、サルトル研究をとりまく環境は実に大きな変貌を遂げている。「死せるサルトルは、生前よりも多産」と評されるほど、死後多くの遺稿が公刊された。とくに、モラルに関する著作の草稿である『倫理学ノート』『弁証法的理性批判』の第二巻、『真理と実存』などが公刊されたことによって、今までの紋切り型とは異なるサルトル読解ができるようになった。いわゆる研究者だけではなく、原書で900頁をゆうに越える『サルトルの世紀』を書いたベルナール=アンリ・レヴィに代表されるように、それまでサルトルに対して敵対的であった者たちも巻き込んだ動きがフランスで見られるのはそのためであろう。じっさい、疎外、搾取、植民地問題といった、サルトルが全身で取り組んだ問題が世界から消え去ったわけではない。いや、それどころか、これらの問題は新たな意匠のもとにつねに残っている。
 だとすれば、いま、この時代に、どんなふうにサルトルを読むことができるか。サルトルをたんに彼の時代や状況に置き直すのではなく、それを私たちの時代と状況から位置づけしなおすこと、が必要であろう。
 この機会に、狭い意味での文学・思想研究という枠組みではなく、多様な観点からサルトル思想の意義を多角的に検証し、その二十一世紀における意義を浮かびあがらせることは必要であろう。ここに、サルトル研究者に限らず、他分野の研究者でサルトルに関心をもつ気鋭の論者による論考をお願いした別冊を企画した所以である。