2005年07月01日

『機』2005年7・8月号:鉄道の先駆者、後藤新平 葛西敬之

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鉄道院初代総裁
 後藤新平は台湾総督府民政長官、満鉄総裁として白紙からの現地経営に辣腕を振るったが、鉄道院総裁としてもその手腕を発揮、国鉄経営の基礎を築いた。
 第一次桂内閣の際、後藤は桂に鉄道国有化の断行を進言、その提案は採用され、第一次西園寺内閣で実施された。その後の第二次桂内閣で逓信大臣として入閣、鉄道院が創設されると、その初代総裁を兼務した。つまり提案者としての責任をとり、鉄道国有化の後始末を受け持った。
 国有鉄道は十七の私設鉄道会社を買収して設立された。当然人や物の不統一が存在し、それを解決した上で欧米諸国の鉄道と遜色ないレベルまで改良していく必要があった。また、国有化で生じる官僚化や鉄道が政治の道具と化すのを避けねばならなかった。そのため後藤は「執務の要諦は『速・確・明』に存す」と適材適所のスピード経営、現場第一主義を信条とし、鉄道独立会計の制定、経費節減、制服制定、鉄道電化計画の推進、職員教習所の設立など矢継ぎ早に実行した。
 後藤は多くの事績を鉄道に残しているが、中でも制服制定は最大とも言われる。制服制定の理由として十三ヵ条を挙げ、その一つに「制服制度は怠惰を制し、放逸を戒め、規律を確守し、責務を重んじ、これを全うさせる慣習を作るに与って力がある」と謳っている。規律は安全を維持する鉄道事業の原点である。規律を醸成する制服の制定は、大きな功績である。

幹線の標準軌化
 しかし初代総裁も含め計三回の鉄道院総裁を務めた後藤だが、幾度も試みながら実現できなかったことがあった。それは幹線の標準軌化である。
 日本の鉄道は狭軌で始まった。狭い国土に素早く鉄道網を敷設するには適していたのだろう。しかし輸送能力向上のため、明治二十年代から幾度も標準軌への改軌が叫ばれた。後藤も熱心な改軌論者で、日本の今後の発展に備え、輸送力向上や大陸の鉄道との一貫輸送を行うために東京から下関に至る路線を改軌すべきとしていた。軍部や民政党も改軌論を支持したが、原敬を中心とした政友会は限られた財源でより多くの新路線を建設すべきと反対した。地元に鉄道を敷設して地元振興を図り選挙地盤を固める「我田引鉄」は当時から存在した。こうして政友会による抵抗のため、明治、大正時代の改軌論は実現せずに終わった。
 次に改軌論が出たのは昭和に入って、一九四〇年の弾丸列車計画である。この計画は議会で承認されたが、第二次世界大戦の戦況悪化により工事は四三年に中止された。結果、標準軌幹線の建設は六四年の東海道新幹線開業を待たねばならない。
 後に「新幹線の父」と呼ばれる十河信二が国鉄総裁に就任した当時、標準軌・別線が新規路線の形態として提案されたが、財政も厳しく実現困難と見られた。しかし、鉄道院総裁の後藤の下で働いた十河が信念を持って周囲を説得、世界銀行からの借款も実現し、東海道新幹線が開業した。七五年の博多開業で山陽新幹線が完成、後藤の念願であった東海道・山陽道の幹線の標準軌化が達成した。

未来を正確に見通す
 現在、新幹線は日本の経済成長を語るには欠かせない存在となった。この事実からも、後藤の改軌論は合理的かつ大義名分があったと言える。時運がなければ、国家百年の計たる提案でも成し遂げられないのだろう。しかし新幹線の開業後、国鉄は赤字になり衰退の途に入った。後藤の夢を砕いた「我田引鉄」は不採算路線を多く生み出し、国鉄の存在をも消し去った。政治というコンセンサスの介入は、企業経営に必要な先見性を封じ込める。後藤の計画は奇抜だと批判されることが多かったが、現在から見れば、未来を正確に見通したものであった。

(かさい・よしゆき/JR東海会長)