2005年06月01日

『機』2005年6月号:私は「Denker」と呼ばれたい 粕谷一希

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編集や出版について哲学する
 生涯、編集や出版と関わりをもって生きてしまった私には、編集や出版と学芸との関係、また、政治や官僚、企業や実業との関係について(あるいは違いについて)考えこんでしまうことが屡々あった。編集や出版について哲学することは、編集者である私の義務に思えたのである。
 ホリエモンさんがいうように、インターネットの時代には、既存のメディアは無意味になってしまうのだろうか。かつてテレビの出現で新聞・雑誌・出版の世界が衝撃を受けたように、いまやテレビも含めて、インターネットの出現の影響を正面から直視しなければならない時代になった。
 しかし、私が生きてきた時代は、牧歌的で活字メディアの黄金時代であった。そうした時代に、編集や出版の理念型はどう考えられるだろうか。私にとっては筑摩書房が、理念型の多くを満たしている存在に思えた。

「思想する人(デンカー)」と呼ばれたかった男
 その筑摩書房創業の三人のうちの一人である唐木順三は、反時代的文人として生き、ながい模索の果てに、独自の自在な境地を獲得した存在であった。彼は黄金期の京都大学哲学科に学び、哲学の落第生を自称しながら「思想する人(デンカー)」と呼ばれることを念願とした人であった。唐木順三は職業的哲学者ではなかったが、考える人、思想する人、ひとりの哲学徒であった。
 唐木順三の思考の深まりと拡がりを考えることを通して、理念型としての編集と出版の意味を、具体的に実感できるのではないかと私は考えたのであった。

「昨日の世界」
 ここに描かれた風景や肖像は、すべて昨日の世界であることを私はしみじみ実感している。しかし、人文的教養を失った人間は野蛮人にすぎないと私は確信しており、インターネットの時代、コンピューターの時代にも、ちがった条件、環境の下で、人文的教養は復活するだろうと思う。復活しなければ、人類の未来はないのだから。
 教養ある市民層はもろくもナチズムに蹂躙されたではないか、とは西洋史家野田宣雄の呈出したアイロニーだが、蹂躙されても必ず甦り、何回でも自己を主張しつづけるのが、人間の宿命であろう。
 その人文的教養の核心は、哲学・史学・文学であるということは、季節はずれの私の信念である。本書は、予定している三部作の第一部であるが、書き終って単なる習作であり覚え書であり、ノートに過ぎないことを痛感する。西田幾多郎について、芭蕉や良寛について、結論的評価を書くまでに至らなかった。書くという作業は、新しい課題を生み出す。新しく生れた思念・理念を、もう少しちがった形で、私自身の思索を深めてみたいと考えている。

(かすや・かずき/評論家)