2005年06月01日

『機』2005年6月号:新たなサルトル像 澤田直

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サルトル・リバイバル
 ジャン=ポール・サルトルの生誕100年にあたる今年、フランスでは国立図書館(BNF)で開かれている大規模なサルトル展が多くの観客を集め、大小様々のシンポジウムが各地で開催され、満を持して出版されたプレイヤード叢書版『戯曲集』をはじめ、サルトル関連の新刊が書店の店頭を賑わしている。それだけではない。週刊誌や日刊紙もこぞってサルトルの特集を組んだ。日本ではすっかり忘れ去られた感のあるサルトルだが、母国フランスではいまなお健在であり、若い読者も『嘔吐』などの小説のみならず、自伝『言葉』や哲学書『存在と無』などにも手を伸ばしているようだ。
 とはいえ、サルトル復権は今年突然始まった現象ではない。同じような出版ラッシュは、五年前にもあった。世紀の変わり目が近づき、没後二十年を迎えた 2000年、あたかも評決のときがきたかのように矢継ぎ早にサルトル関連の書が出版された。もちろん専門家による地道な研究はそれまでも跡絶えたことはなかったが、サルトル研究者でもサルトル主義者でもない著者たちがいっせいに本を出し、再検討が本格的に始まったのである。そして、そのようなサルトル・リバイバルのいわば火付け役となったのが、ベルナール=アンリ・レヴィ(以下BHL)の660頁を越える『サルトルの世紀』だった。かつてヌーヴォー・フィロゾフ(新哲学派)として華々しくメディアに登場したBHLが、そして、むしろそれまでサルトルに対しては批判的な発言をしてきたBHLが、臆面もなく ――そして、ナルシスティックに――サルトル礼賛を展開する大著を発表したのだから、話題に上らぬわけはなかった。


サルトル再発見の機会
 第二次世界大戦後、フランスのみならず、世界の思想界を席巻したジャン=ポール・サルトルは、その存在感ゆえに、後続する作家や哲学者たちから、文字通り目の上のたんこぶと見なされ、構造主義以降はもっぱら批判の対象となってきた。いや、きちんとした批判すらされることなく、斬り捨てられてきたといったほうが正確であろう。そのサルトルを真正面からとりあげたのが誰あろう、1977年の『人間の顔をした野蛮』によってヌーヴォー・フィロゾフのリーダー的存在となったBHL、ドゥルーズからは、哲学的にはゼロ、無内容であり、単に知のマーケティングに長け、多数受けを狙うヌーヴォー・フィロゾフのなかで、興行師、記録係、楽しい音頭取り、ディスクジョッキーの役を演じていると、こき下ろされたBHLだったのだから、誰もが興味をそそられずにはおれなかった。多くのベストセラーを生み出してきたBHLの筆力は、先ごろ邦訳の出た『誰がダニエル・パールを殺したか?』を見ても明白だが、それだけでは思想の巨人と向き合うには装備不足だ。狂信的なイスラム主義者に誘拐されて殺害された『ウォールストリート・ジャーナル』紙の記者を「調査報告小説」という独自の手法で描いた彼が、『サルトルの世紀』でとった手法は、世紀の巨人JPS(サルトル)と自分(BHL)をだぶらせつつ、自伝的な要素を織り交ぜて語るという仕掛けだった。
 実際、JPSとBHLに共通点がないわけではない。1948年、アルジェリアに生まれたユダヤ系のBHLは、サルトルと同様、高等師範学校で学び、同じように哲学教授資格を取得した(しかし、これはフランスのほとんどの作家・思想家のキャリアだ)。早々と教職から足を洗い、筆一本で立つようになった点も同じだ。そして、JPSと同様、行動する論客として、私BHLも世界中をかけめぐると著者は言いたげに見える。
 私自身、このBHLの本を手にしたときには、「なぜあのBHLが、自意識過剰なまでのナルシストのBHLが、いま、サルトルなのだろうか」という戸惑いを感じずにはおれなかった。だが、読んでみると、ふつうのサルトル研究の本とは異なる不思議な魅力を備えた本だ、と感想を言った友人たちの反応がよく理解できた。たしかに、事実誤認や論証の粗雑さや飛躍もあるが、重箱の隅をつつくような専門論文の近年の成果のエッセンスを絶妙にパッチワークして一つの絵巻物に織り上げたこの本は、一般読者にとっては、人間としての、作家としての、思想家としてのサルトルを、新たに発見するための絶好の機会を与えてくれる。そして何よりも、読む者に評伝としての力がひしひしと伝わってくるのだ。それは、作家として、劇作家として、ジャーナリストとして、雑誌の編集者として、哲学者として、批評家として二十世紀を横切ったサルトルの姿を、同じく、作家として、劇作家として、ジャーナリストとして、雑誌の編集者として、哲学者として、批評家として、(スケールはかなり違うが)二十世紀の終わりから新世紀へと駆け抜けようとするBHLが情熱をこめて描き出しているからに他ならない。 全三部各五章から成る均整のとれた構成を見るだけでも、その特徴は見て取れよう。

三幕のステージ
 第一部「世紀人」では、全体的な知識人としてのサルトルがどのように誕生していくのかが、文学・思想界の力学を交えながら描かれるが、これはいわば、サルトルを座標軸とした二十世紀のフランス文学・思想の見取り図とも言える。つまり、サルトル以前、哲学で言えば、ベルクソン、ニーチェ、フッサール、ハイデガー、文学ではジョイス、ジィド、セリーヌ等々、サルトルの同時代およびサルトル以降、バタイユ、メルロー=ポンティ、ラカン、フーコー、ドゥルーズ、アルチュセール、(あまり言及されないのはデリダ)といった、綺羅星のような布置がサルトル現象とともに語られるのだ。
 第二部「サルトルに公正な裁判を」では、サルトルをとりまくありとあらゆる神話が検証される。70年代に構造主義にとって替わられるようにして、現代思想の前景から退いていったサルトルに対する批判はいろいろあるが、その中心にあるのは、「サルトル=主体の哲学=人間主義」という短絡的なレッテル貼りであろう。BHLは、サルトルが何よりも「反ヒューマニスト」であるという点を強調しながら、具体的な作品にあたりつつ、この故なき非難に対して反論を試みる。BHLによれば、サルトルの人間主義が68年の思想によって乗り越えられたどころか、話は逆で、サルトルこそが反人間主義の先駆者であり、また、あらゆる全体主義と対決する知識人のモデルであり続けるのだ。
 第三部「時代の狂気」では、後期から晩年のサルトルに焦点をあてながら、しばしば失敗と目されるサルトルの政治思想が俎上に載せられる。BHLによれば、サルトルは一人ではなく、二人のサルトル、お互いに相反するサルトル(いやさらには第三のサルトルまでいる)がいるのであり、そのために一見矛盾した数々の行動(ソ連賛美、毛沢東派の若者たちの支持)が現れるということになる。


フランス現代思想の裏と 以上のような内容が、スピーディで畳みかけるような文章、読む者を惹きつけて放さない文体で書かれているために、サルトルを知らない者であっても、この大部を一気呵成に読むことができる。そして、読後にはサルトルについて新たなイメージが像を結ぶことになろう。それはいま必要とされる思索し行動する知識人のモデルとまではいわないにしても、思索と行動の在り方を示唆してくれるひとつの形象であろう。だが、それだけに留まらない。さらに興味をそそられるのは、若きBHLとアルチュセールとの対話の回想など、ふんだんに盛り込まれた逸話の類だ。その意味でも、本書の功績は、サルトルを軸としながらも、より広くフランスの現代思想全体のステージをわかりやすく、また魅力的に活写した点にあると言ってもよいだろう。フランス現代思想のいわば裏と表の紹介、それが「サルトルの世紀」と題された、三幕からなるこのステージの骨子なのである。

(さわだ・なお/フランス思想・文学)