2005年04月01日

『機』2005年4月号:人権をひらく 森田明彦

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 カンボジアやモルドバで出会った、人身売買の犠牲となった子どもたち。スーダン南部で出会った、武力紛争の中で親を殺された子どもや戦闘に兵士として参加して負傷した子ども。タイのバンコクで見かけたストリートチルドレン。イラク南部の町バスラにある病院で医療機器、医薬品もない中で死を待つ赤ん坊。世界には、今でも最も基本的な人権すら保障されていない子どもたちが数多く存在している。
 わたしは、財団法人日本ユニセフ協会広報室長として、1997年より2004年5月まで、途上国の子どもたちの現状とユニセフ(国際連合児童基金)の活動を日本の人々に伝える広報活動と子どもの権利の実現を目指すアドボカシー(政策提言)活動に携わった。
 本書『人権をひらく』は、この活動を通じてわたしが感じ取った人権を巡る課題について、マイケル・イグナティエフおよびチャールズ・テイラーという二人の現代思想家の論考を参照しつつ、考察を行ったものである。

人権目的の人権侵害
 現代人権問題の第一人者であるハーバード大学教授・同大学人権政策カー研究所長のイグナティエフは、旧ユーゴスラヴィアやアフリカの民族紛争の現場を訪ね、その原因と解決方法を探る中で、普遍的な人権とは何か、どのような人権侵害が国境を越えた介入を正当化するのか、という課題を真摯に考え続けている。近年では、米国のイラクに対する武力行使を、「混乱から秩序を構築するために必要な力と意志を提供すべく、一時的な帝国による支配が正当化される」という理由で容認し、国際的な論議を引き起こした。
 人権を目的とした介入が、更なる人権侵害を引き起こした時、人権には何ができるのだろうか。

「人間性」の相違
 そもそも、人権はいかなる意味で普遍的なのだろうか。人権の根拠は人間の尊厳である。そして、人間を人間たらしめているものは、一般に「人間性(Humanity)」と呼ばれている。しかし、「人間性」に対する理解は世界で異なっている。例えば、アメリカ英語の世界では、「人間性」は個人に内在する人間の属性として理解されているように思われる。一方、日本語社会では人間性は個人の属性ではなく、人と人の関係において把握されている。わたしは、人権の普遍性を権利の内容からではなく、権利の主体としての自己観、人間観の相違を通じて検討してみようと考えた。

「西欧近代的自己」と人権
 そのために取り上げたのがチャールズ・テイラーである。彼は、主著『自己の諸源泉』を始めとする多くの論考を通して「西欧近代」の特質を探求している。「近代的自己」は、自らの人生を発展させる権利を、「法」によって与えられたものではなく、自らに帰属するものと考える「権利の主体」である。しかし重要なのは、そうした個人は、孤立して存在するのではなく、初めからある共同体の一員として存在することである。彼は、自己決定に基づく自己実現に究極の価値を置く近代社会に相応しい道徳として『〈ほんもの〉という倫理』(産業図書、2004年)を提唱するが、自己実現は常に共同体の中で相互に行われるのである。それゆえ自律的生き方を目指す「自己」は、他者との対話と承認を通じて自らの個性を発展させるために、そのような生き方を可能とする共同体を維持、発展させる社会的責務を自ら担う。
 わたしは、テイラーの思想を通じて、近代的個人とは日本で通俗的に理解されているような私利のみを追求する原子論的な個人主義者ではないことを学んだ。
 本書は、「西欧近代的自己」の解明を通じて、日本では個人主義的過ぎると批判されがちな「人権」という考え方をより普遍的な理念にひらくことを目指した実践的研究書である。

(もりた・あきひこ/長崎ウエスレヤン大学教授・元日本ユニセフ協会広報室長)