2005年04月01日

『機』2005年4月号:後藤新平の満洲経営 編集部

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 1905年日露戦争後のポーツマス条約によって、日本は旅順・大連の租借権と長春から旅順・大連間の鉄道に関する権利を獲得した。微妙な国際関係の中で満洲統治の足がかりともなるこの地域の鉄道をいかに経営するかが議論される中、1906年、急逝した児玉源太郎の「遺志」を受け、後藤新平は南満洲鉄道株式会社初代総裁(1906年11月~08年7月)の任に就く。

満洲経営上の困難
 当時満洲は「東三省」と呼ばれており、日本、清国、ロシアがせめぎ合い、加えて米国や英国も新たな市場として虎視眈々と注目しつつある地であった。北洋軍閥の袁世凱を後盾とする総督徐世昌や、巡撫唐紹儀らが南満州鉄道とその周辺の利権を回復する運動を起こしつつある中、日本側は、外務省からの出先の領事と関東州都督、満鉄総裁がそれぞれ別々の思惑で満洲経営を行わんとする三頭政治状態にあった。他方で満鉄は、単なる商事会社ではなく、国家的大陸発展策という満洲経営の本旨を実現する重責を担っていたが、内地官僚はややもすれば満鉄を一商事会社としかみなしておらず、彼らが作る法的制約が満洲経営の障壁となることがしばしばであった。総裁就任当初、後藤は、こうした困難と常に戦い続けねばならない状況にいた。

満鉄十年計画とその施設
 中央政府(外務省)や関東州都督と満洲経営の調整や、清朝やロシアとの折衝に明け暮れる一方で、後藤は、満鉄十年計画を策定し、ロンドンでの社債の発行によって満鉄経営資金二億円を捻出、それを元手に、若手の俊才(「午前八時の人」)を抜擢、副総裁中村是公以下八人の理事を縦横に使い、日露戦争期に狭軌道となっていた満鉄軌道の広軌化を一年で実現、外国人受け入れを想定して満洲の原野に駅を中心とした長春などの広大な都市群やヤマト・ホテルの建設、松田武一郎を抜擢しての撫順炭鉱の創業、巨大な大連築港、旅順工科学堂・大連病院・南満医学堂の創設、中央試験所や農事試験場など商工農業の基盤を大胆稠密に整備していく。他方で、『満州日日新聞』を創刊し、世界とアジアの経済研究の中枢として東亜経済調査局を創立。台湾土地調査局に起用していた岡松参太郎をトップにすえ、満洲の旧慣調査にも当たらせるなど八面六臂の活躍をする。

世界政策の展開
 こうした施設は、文化的経済的観点から進められ、有事の際には軍事に援用可能とする「文装的武備」を旗印としたが、後藤の満洲経営の構想は、常に彼独特の世界政策に組み込まれていた。南満洲鉄道はロシアの東清鉄道と連結させて欧州につながり、南の大連港は船で日本、米国へとつながる世界運輸交通大幹線の一部に位置づけられていた。一方、清国とは皇帝および西太后に拝謁して友好を深め、袁世凱にはアジアの安定のために箸を使う国同士の「箸同盟」を提唱、さらに訪露してロシア皇帝に拝謁、蔵相ココフツォフらと亜欧連結交渉を行った。この時、ココフツォフに約束して、後に後藤が編纂したのが世界の旅人のための『英文東亜案内記』(全五巻)で、横井時雄による優れた英文であった。
 そして、最も注記すべきは、後藤が時の韓国統監伊藤博文に語った世界政策「新旧大陸対峙論」である。これは、やがて新大陸米国が世界に覇を唱えることを予想して、欧・露・清・日の旧大陸が一体となって米国に対峙するという当時からすれば破天荒な世界構想であったが、その実行に立ち上がった伊藤は、まもなくハルビンで横死、挫折する。
 後藤は、二年弱で満鉄総裁から第二次桂内閣逓相・鉄道院総裁となるが、満鉄を逓信省管轄下に置いて指導し続け、日本の鉄道を世界運輸交通大幹線の一部として位置づけ、広軌化を目指すのである。

(記・編集部)