2005年02月01日

『機』2005年2月号:「台湾統治の方針は無方針」 鶴見祐輔

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 1898年(明治31年)、難航を極めていた台湾経営を立て直すべく、後藤新平は台湾総督・児玉源太郎の抜擢を受け、民政局長(後、民政長官)として前代未聞の植民政策をとる。(編集部)

施政方針演説の取り止め
 台湾につくと、さっそく伯〔後藤新平〕の植民統治策の根本が明瞭になった。すなわち「台湾統治の方針は無方針」という、伯一流の警句をもって表現された根本鉄則であった。
 児玉総督が、着任まもなきある日、後藤民政局長にむかって、施政方針演説の草稿の起草を命じた。しかるに後藤局長は、意外にも平然として、「そんなものは、やらん方がいいでしょう。」と答えた。その意味が奈辺にありしか、伯は往時を回顧して、次のごとく語る。

 むこうへ行ったら歓迎会を開いた。その歓迎会の席上で総督の施政方針をやろうと思うから、それを君一つ書いてくれと、児玉さんが言った。私は、
 「それはやらん方がいいでしょう。」
 「どうして?」
 「それは今まで樺山もやった、桂もやった、乃木もやった、皆やっている。それは詩人が詩を作るようなものだ。つまらないから、やらん方がいいでしょう。みんなが施政方針の演説をなさらぬことを、不審なりとて聴きに来たら、俺は生物学の原則に従ってやる、俺はここ台湾の土地の拓殖のことをやりに来たのではない、土を掘りに来たのではない、台湾のため内閣員の頭を開拓するんだ、そんなことを施政方針へ書けるものじゃないから書かない、黙っていた方がようごわしょう。」
 と言ったよ。児玉さんが、
 「生物学というのは何じゃ。」
 「それは慣習を重んずる、俗に言えば、そういうわけなんだ。とにかくひらめの目をにわかに鯛のようにしろと言ったって、できるものじゃない。慣習を重んじなければならんというのは、生物学の原則から来ている。」
 「そうか、そんなことか、よしよし、それじゃ止めよう。」
  こういう調子なんだ。これは私がその時の児玉さんの言葉の通り言っているんだ。私も半年ばかり、臨時陸軍検疫部を一緒にやって、えらいということは知っておったけれども、私の言ったことを本当に採用するか知らんと思っておった。これが普通の人なら、それを誰かに言ったでしょう。後藤はああ言ったけれども、参事官長の石塚英蔵か誰かに書かせてみようくらいに、凡人なら考えたでしょう。それで歓迎会の時に、何か話すだろうと思っておったら、やっぱりやらなかったよ。


 児玉総督をして、台湾統治の最初にあたり、統治方針の声明を差し控えしめたことは、伯の台湾統治政策の第一の成功であった。そうして、伯のこの一見奇矯なる言を容れて、一切の概念的施政方針を断念した児玉の明敏を、伯は晩年にいたるまで激賞してやまなかった。

言にあらずして行である 名にあらずして実である
 伯はなぜに児玉総督をして、施政方針の演説を思い止まらせたか。それには二つの理由があった。
 その一は、植民政策の要諦は、不言実行にあるということだった。民をして悦服せしむるものは、言にあらずして行である。名にあらずして実である。この点、民衆というものは、案外に敏感である。いかに美辞麗句を羅列し、千言万語を連ぬるとも、実現せざる政策に対して、民衆は馬耳東風である。したがって新任者の施政方針声明なるものは、多くの場合、新任者の自己慰籍にすぎない。しかず、しばらくは沈黙を守り、その間に、最も手近にあって、容易に着手しうる緊急の問題を、片ッ端から片付けんには。
 今度の当局者は、黙ってはいるが、やることはやるぞ!
 この信頼が民衆の間に起こって、初めて統治政策の実行に権威を生ずるのである。生来豊かに政治家的本能に恵まれていた伯は、はやくもこの真実を観破していたのだ。
 はたして総督の施政方針声明中止は、台湾島民の心理に、良好なる影響を及ぼした。

「生物学」的認識
 しかしながら、その第二の理由は、もっと深淵なる根底の上に立っていた。それは総ての植民政策は、その植民地の民度、風俗、習慣に従わねばならぬという原則であった。それを伯は、伯独特の「生物学」という名辞で表現した。
 およそ政治の対象は、概念にあらずして社会にある。ゆえに、いかに巧緻なる政治理論および法律理論を案出すといえども、それが、それを運用すべき時代社会に適合せざる場合には、三文の価値もないばかりでなく、巧緻なれば巧緻なるだけ、それは有害である。すなわち政治の基礎は、常に、対象たるべき社会の徹底的なる研究と、正確なる認識の上にあらねばならぬ。
 これはすべての政治に共通なる原則であるが、ことに植民地のごとく、あらゆる点において、母国と客観的情勢を異にする土地については、須臾(しばらくの間は)も忘るべからざる鉄則である。
 伯が赴任後ただちに「生物学」を説き、台湾統治の根本義を、旧慣調査に置いたのは、そのためであった。これについて、東郷実は次のごとく論じている。


 伯は機会あるごとに「植民政策はビオロギー(生物学)である」と、いつも我々に説いておられたものである。これを台湾ないし満鉄の経営の跡について考えてみても、確かに植民政策の基礎をそこに置かれたことは明らかである。これを台湾について言えば、極端な同化主義を排撃され、放漫急進の主義を避けて、集中漸進の主義に出発し、同時に何事も科学的研究にその基礎を置かれたことについて考えてみても了解されることである。
 台湾においては旧慣調査会、その他種々な研究機関ないし調査機関を設置して、ここに天下有数の学者を網羅して常に科学的研究を続け、その研究調査の結果を資料として経営上の実際的施設を進めていかれたことについて考えても明らかであろうと思う。その他あるいは研究所を設置して科学的研究に一歩を進められたごとき、伯の植民地経営は少なくとも生物学を基礎としてその根本策を案出し、いわゆる科学的植民政策を確立せられたものといわざるを得ない。日本の政治家は、ともすれば、ただ形式のみを重んじ、法律規則にとらわれているのが今日の時弊である。しかるに、伯がこのごとく常に科学を基礎として進まれたということは、その出身が医者であって、自ら自然科学をよく了解されていたことによるのであろうけれども、同時に学者を尊重し、ことに優秀な技術家を重く用いられた結果によるものであるといわなければならない。


 まことに東郷の言えるがごとく、日本政治の根本的弊害の一つは、法律制度のみを中心とする形式的政治である。それは日本の官僚政治家の大部分が、法律科出身に占められていることに職由する(もとづく)。ことにこの弊害は、植民地経営について、母国の法律的尺度を、そのまま適用せんとする場合、最も有害に作用する。ゆえに従来の台湾統治の失敗の大半は、この点にあったと言ってよかろう。
 しかるに日本は、初めて、科学を基本とする政治家を見いだした。これが伯の、日本政治史の上に独特の地位を占むるべきゆえんの一つであるが、同時にまた、伯が台湾および満洲の経営に、特に顕著なる成功を収め得たるゆえんでもあった。

法律万能主義の打破
 かくして伯の台湾統治についての第一着手は、法律万能主義の打破ということであった。勿論、法律そのものを排撃せんとするのではない。植民地の特殊性に適切なる特異の法律をもって、一般理念的なる形式的法律を駆逐せんとするのである。
 当時、台湾総督府の事務官は、大多数法科出身の者をもって固めていたので、新しい法律が山のごとく作られていた時である。伯はこの有様を見て、ついに時機を見て法律の根本的改革を断行した。それはほとんど当時制定されていた法律の八分どおりを捨てて、新しい法律に替えたほどの大改革であった。これについては、伯がこう言っておられたことがあった。
 「いかに古いものが悪いからと言っても、少しは旧慣を尊重して行政をやらなければならぬ。それに風俗習慣が違うのだ。一足飛びに内地風に化せしめようといっても、それは無理なことだ。硝酸主義(旧来のものを全く破壊する主義)といわれていたロシアの政策でさえ、満洲における施設は随分旧慣を尊重したものだ。言葉や習慣の異なっている所へ、内地の行政をそのまま一足飛びに持って来るなどというのは誤れるも甚だしきものだ。」

(つるみ・ゆうすけ/政治家)
※全文は『〈決定版〉正伝 後藤新平 ③台湾時代』に収録(構成・編集部)