2005年02月01日

『機』2005年2月号:はじめて古事記神話を読む 山田永

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「作品」として『古事記』神話を読む
 ヤマタノヲロチは八つの口で一気飲みしたから、酔っぱらう速さも八倍だった。
 これまでは、口が八つだから酒壺も八個だとのみ考えられてきたのではないか。それでは周到なスサノヲの作戦にならない。「身一つに八つの頭」なのだ。上述のように読むべきである。古事記には、従来見過ごされてきたこんな工夫がまだたくさんある。ひょっとして、これらの工夫に気づかずに読むことは、もったいないことではなかろうか。もったいないといえば、このヤマタノヲロチ神話から、農耕儀礼(豊作祈願)や産鉄集団の争いを導く説である。それは、古事記の中からこの部分だけを切り取って、当時の出来事をさぐることである。一つの作品を読む時、普通このような読み方はしないだろう。部分を読む時も全体を視野に入れないと、わかることもわからなくなる。たしかに、農耕や産鉄のことがこの神話の素材かもしれない。だがそれはあくまでも素材の追求であって、古事記神話を読む行為ではない。神話で(ほかのことを)読むことになってしまう。私は国文学徒の立場から、当時の歴史的事実をさぐるのではなく、作品としての古事記神話を読みたいのである。

「わかりやすくて本格的な」架空の講義録
 作品としての古事記神話の全編を対象に、本文の表現に即して読む授業をやりたいとずっと考えていた。神話本文を全部板書して、一語一句を説明して、全体を解説する。でも、こんな授業は何年もかかってしまい、同じ学生相手に古事記神話全部を講ずることはできない。この夢は、架空の授業でやるしかない。その講義録が、本書『「作品」として読む 古事記講義』である。
 本書は、私が十数年、古事記神話の講読を行なってきた講義ノートがもとになっている。それに、当時質問されたこと、学生からのツッコミ、私が途中で脱線したことなどを加えた。教室での実際のやりとりを、かなり再現してみた。「授業」といっても、私の授業を受けるのは気楽なものだ。いつもにぎやかな教室である。私語や携帯電話のせいではなく、講義内容に対する反応(「へー」や笑いやブーイングも含めて)のためである。だから、本書も気楽に読んでいただきたい。電車の中でも読める「わかりやすくて本格的な入門書」を目指したつもりである。

古事記神話の面白さを引き出す
 古事記と同じ古代文学でいうと、万葉集には入門書が多い。古事記の方はあることはあるのに、専門的すぎるか簡単すぎるかの両極端なのだ。作家の現代語訳も多い。ただ、これには先行研究が全く踏まえられていない。創作が混じっていることもある。三年前、三浦佑之氏が『口語訳古事記』(文藝春秋)を出してくれた。これは大変「わかりやすくて本格的」なのだが、残念なことに「口語訳」に重点を置いているから、古事記の本文そのものがない。古事記を味わうことができないのである。また脚注だけなので、詳しい解説も少ない。でも、三浦氏の本がベストセラーになったことは、世の人が意外に古事記に興味があることの証しである。もしかしたら、世間の要求に応えることができるかもしれないとえらそうなことを考えて本書を書き下ろした。
 本書はそのため、古事記神話の本文(訓読文)と、わかりにくい箇所の現代語訳とをのせることにした。そして、各条ごとに解説をつけた。古事記から歴史的事実をさぐるのではない。まして、歴史的事実を踏まえての古事記の解読でもない。本文に徹した読みである。あわせて、古事記の手法・特色なども記した。
 古事記を読んだことのない人はまだ多いだろう。この面白さを知らないことは、やはりもったいないことである。これを機会に、本書をご覧願えれば幸いである。本書が面白いかどうかはさておき、古事記が面白いことは、きっとわかっていただけるものと思う。


(やまだ・ひさし/古代日本文学)