2005年01月01日

『機』2005年1月号:現代の悲恋 渡辺京二

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『おえん遊行』は江戸時代の物語です。ですが私には、作中に表われている気分は江戸時代すなわち近世のものではなくて、むしろ中世的であるように感じられてなりません。もっと具体的にいうと、この物語にはいちじるしく能に近いところ、浄瑠璃あるいは説教節に近いところがあります。

もの狂いの世界
 私がこの作品から能を連想するのにはいくつか理由があります。ひとつはこの物語が夢幻劇であるということです。能は夢ということと、異界のものたちという二つの要素をもつ夢幻劇でありますけれども、『おえん遊行』も現実と夢幻がいれ替る夢幻劇の構造をもっています。
能では人物が舞いながらもの狂いしてゆくわけですが、このもの狂いということは『おえん遊行』のいちじるしい特色になっています。たとえば、島に役人がやって来て踏絵が行われます。役人から名を問われた主人公の気のふれた女乞食おえんは、「名前をたずねに参ろうにも、それを下さいた親さまは、十万億土におらいます」と言って泣き出し、口説を続けながら絵踏み板を抱えあげ、「そこな太郎さま」と役人にすり寄ってゆきます。これは狂っているからそうするというよりも、自分の吐いた言葉に自分がとり憑かれて、だんだんもの狂いの世界にはいってゆくのです。ですからもの狂いというのはたんなる狂態ではなくて、ひとつの演劇的な所作になり舞になってゆくのです。二度目の踏絵のときは「われは この世のものならねど/久遠のぼんのう捨てかねて/花の時期にや迷うなり」と唄いつつ舞ってしまうわけです。この歌など全く能の詞章でしょう。そしてものに狂うのはおえんだけではありません。台風の時に流れついた 娘の阿茶様もそれにつれて舞い出す、つまりもの狂いの世界へはいってゆくのです。

能面をかぶる登場人物
 さらに言うならば私には、この物語に出て来る人物はみな能面をかぶっているように感じられます。つまり型であって個性ではないと思うのです。作中には名前をもった百姓たち、老人や若者が出て来ますが、全く個性が感じられない。というより作者がそれを描きわけようとしていないのです。そういう脇役だけではなく、主役級のおえんや阿茶様も個性としてはけっして生動していない。これは『あやとりの記』において、岩殿、仙造、ヒロム兄やん、犬の仔せっちゃん、荒神の熊ん蜂婆さんなど、躍動する個性的人物像を造型しえた作者の手腕を思えば、実におどろくべきことと言わねばなりません。これは能的な幽玄を作者が意識してめざしたことの結果ではありますまいか。
 しかし『おえん遊行』は能よりももっともっと、人形浄瑠璃や説教節に似ております。おえんが懐のにゃあまと会話するところなど、またもの狂いに憑かれて所作事をしたり、舞ったりするところなど、なにか人形の動作を思わせるところがあります。
 『おえん遊行』を詩劇ないし舞踊劇とみなすなら、ギリシャ悲劇に見立てることもあながち不可能ではないでしょう。浜辺やアコウの木の下でえんえんと続く爺さん婆さんたちのおしゃべりは、の役割を果しておりますし、コーロスである以上彼らに個性がないのは当然です。もっともこの詩劇には運命のドラマは全くありません。

口説きの世界
 ひとつだけ強調しておかねばならぬのは説教節との親近性です。『おえん遊行』は口説きの世界なのです。人間のかなしみの探さ、煩悩の深さ、業の深さを身悶えしながら掻きくどく語り口です。
 説教節はどろどろした土俗性や荒々しい残酷さにおいて、さらに救済を求める情念の深さにおいて、強烈なインパクトをもつ表現形式ですけれども、石牟礼さんの作品には初期の『苦海浄土』以来、説教節的な要素が見られました。『おえん遊行』でもおえんの口説はまさに説教節的でありますし、乙松という男が主人の弟を殺して磔になる挿話は、描写の残酷さといい、マゾヒスティックな話の仕組みといい、あまりよい意味でなく説教節的です。

真の救済の文学を求めて
 悶えながらの口説というのは、うつつと幻が交錯し移行しあう手法とともに、作者のいわば身についたスタイルでありましょうが、『おえん遊行』の場合、かなり意識して能ないし説教節的手法が使われているのだと思います。というのは、あくまで個の意識や情念に即した近代文学の手法では、自分のうちにある存在のかなしみの正体を追いきれないという自覚が作者にあることを意味します。個的なかなしみの根には、幾代にもわたって降り積って来た前近代の民のかなしみがあって、その根を掘ることなしには、真の救済の文学は生れないと作者は考えているのではないでしょうか。私は以前から、石牟礼文学の本質は救済を求める現代の悲歌であると考えているのですが、個の意識に閉ざれた近代文学の方法では、現代人の救済の方向は見えないと彼女は言いたいのだと思います。
 あるいはそんな大それたことは抜きにしても、ひとりの意欲的な現代作家として、彼女は古代から中世に及ぶ声音の文学をとり戻したいと考えているのかも知れない。古代歌謡や中世の物語・詩劇に、前衛的な文学の可能性を見出しているのかも知れません。私はつねづね石牟礼文学に、現代ラテン・アメリカ作家、たとえばマルケスやドノソに通底するものを感じとって来ました。『おえん遊行』は能や説教節を現代によみがえらせようとしている点で、非常に実験的な作品でありますし、そういう意味で評価・検討に値する作品です。

(わたなべ・きょうじ/作家)
※全文は『不知火――石牟礼道子のコスモロジー』に掲載。(構成・編集部)