2004年07月01日

『機』2004年7月号:「偉大な女帝」エカテリーナ二世の謎 H・カレール=ダンコース

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ロシア研究の第一人者が、ロシアの近代化の謎に迫る!

1762年のクーデター
 1762年6月27日、ひとつのクーデターによって、そう、またしてもクーデターによって、ロシアの帝位に33歳の若き女が就いた。エカテリーナである。だがこのできごとにも、上流社会は驚きはしなかった。というのも、1725年のピョートル大帝の死以来、たちの帝国は、これと似たようなできごとの連続だったからである。帝位に野心のあるものがこれに就くと、すでにその座にいたものを放逐する。もっとも、放逐されたものもまた、これよりさき同じようにして、その座に就いていたのだった。エカテリーナは、その夫にして正統なるツァーリ・ピョートル三世にとって替わったのだが、ピョートルはエリザヴェータ一世の後継者で、エリザヴェータもまた、20年後のエカテリーナとまったく同様に、1741年にクーデターによって女帝となったのだった。1762年のクーデターが1741年のクーデターの二番煎じだったとされるのは、ひとつには二度とも女性が帝位に就いたからであり、また、その方法が同じだったからである。つまり、近衛部隊が事件の推移を決定していたのである。とはいえ、両クーデターの類似点はここまでである。ピョートル大帝の娘であったエリザヴェータとはちがって、新しい女帝エカテリーナは、いかなる統治資格も有してはいなかった。かの女はロマノフ王朝とは無縁のものであり、さらにロシアに対してすら無縁のものだった。かの女とこの国を繋ぐものは、唯一ピョートル三世、すなわち、かの女のせいで退位させられた前ツァーリだけだった。

18世紀のロシアの評判
 ヨーロッパ君主「クラブ」へのこの新参者は、これら君主たちからみて、帝位簒奪者でしかなかった。かの女が、近衛部隊の若い将校グループの企んだ陰謀によって、帝位に就いたからである。さらに悪いことには、その首謀者はかの女の愛人だったのだ! 1762年には、ヨーロッパじゅうで、だれひとりとしてエカテリーナを認めていなかったし、かの女の政治生命が長いなどと考えてもいなかった。
 かててくわえて、この18世紀の後半においては、ロシア自体が立派な評判をえていたわけではなかった。ヨーロッパの大君主たちはこのころ、ロシアは半分野蛮な国であり、かれらの多様な外交関係のなかでは副次的な役割しか振られていないとみなしていた。たしかにかれらは、ロシアを自分たちの統治する国と同等だなどとはみなしていなかったのである。なるほどピョートル大帝は、みずからの帝国を西欧化しようとする決意によって、またバルト諸国の征服によって、ヨーロッパに大きな印象を与えた。そして、かれの娘エリザヴェータ一世は、オーストリア継承戦争(1740―48年)を有効に利用して、ロシアを、ヨーロッパ外交という一大ゲームにおいて無視できないカードにした。
 ロシアの人々は、過去の経験から、ある確信をひき出していた。すなわち、新しい女帝の統治は、かの女の寵臣たちの統治であり、したがって、かの女に影響を及ぼすことのできる男たちの統治だというのである。政治的経験も現実的な正統性ももたずに、若い女がどうして一国の政府の長などになれようかというのだ。
 したがって1762年6月には、あらゆることからして統治の行く末を予見することができた。すなわち、権力なき女帝、強力なる寵臣たちの果てしない抗争、そして最後は新たなるクーデターというわけである。

エカテリーナ二世の遺産
 ヨーロッパじゅうでも、またロシア国内でも、このように予見されていたが、そうした事態は起こらなかった。エカテリーナ二世は三四年間統治し、その死だけが統治に終止符を打った。たしかに、かの女の統治は平穏とはほど遠いものでありたび重なる疫病、かず多くの蜂起、一度の大反乱、連続する戦争……などなどがあった。このような総決算からみて、かの女の統治の終わりには、荒廃して膝を屈した国が後継者に託されたと思われるかもしれない。ところが、その遺産はまったく違ったものだった。ひとつの貴重な指標から、そのことを苦もなく知ることができる。すなわち、ロシア帝国の人口である。1762年には、ロシアの住民は3000万に満たなかった。ところが1796年〔エカテリーナの死の年〕には、4400万になっている。この人口の増加は当時としては注目すべきものだったが、おそらくそこには、エカテリーナの7度の征服によってロシア帝国に編入された700万人が含まれている。それでもこの増加は、なによりも、もっと幅広い進歩のかずかずを象徴するものなのだ。
 国土空間も西と南に拡大するが、エカテリーナ二世の治世は、ピョートル大帝の治世と同様に、国際政治でのめざましい成功を特徴としている。いく人かの君主たち――ルイ十五世とマリア =テレジア――は、ヨーロッパ大陸という政治の舞台でロシアに現実的な地位を認めることを、だれよりもためらっていた。だが、右の成功の結果として、かの女の治世の半ば以降、これらの君主も、ロシアにふさわしい地位を認める決断をしなければならなくなる。

ピョートル大帝からの継承
 ピョートル大帝は、正面から、その近代化計画と対外行動をおし進めた。かれは、バルト海においては成功し、地中海では失敗した。かれのあとを受けてエカテリーナ二世は、同様の対外目標を定め、先行した大帝が失敗した場所においても成功をおさめた。だがかの女には、ピョートル大帝と同じく、その対外活動に本物の国内計画を結びつけることができたのだろうか? 要するに、かの女は、さまざまな計画を国内外で進めようとしていたが、それら計画に関する明晰なヴィジョンをもっていたのだろうか? そして、その代償はなんだったのだろうか? 大帝の死に続く帝位継承上の争いにもかかわらず、大帝が、かの女の模範だった。だから、おそらく、エカテリーナ二世がみずからひき継ごうとしたのは、大帝の業績であり、大帝の野心だった。大帝の二つの目標――西欧化と国力 ――もまた、かの女の目標であった。

エカテリーナ二世の真の相貌
 ピョートル大帝に関していえば、あのソルジェニツィンも、現代アメリカのロシア史家リチャード・パイプスも、そしてある点まではクリュチェフスキーですら指摘しているように、近代化の夢はもっぱら、力を、つまり軍事力と国力を獲得するためのものだった。それはまた、エカテリーナ二世の視点でもあったのだろうか? あるいは、かの女の業績を区別して、諸制度や人々の精神をヨーロッパ化しようとする意思は、たんに、ロシアの対外的な力を確固たるものにする手段だったとみなすことができるのだろうか? ピョートル大帝が推進したヨーロッパ化は、「仮借なき強制という鞭のもとで」強行されたと、クリュチェフスキーは書いている。この歴史家はまた、「ピョートルの改革は、専制君主とその人民のあいだの果てしない闘争を特徴としていた」とつけ加えている。それはまた本当のところ、エカテリーナ二世の手法でもあったのだろうか? かの女の治世に対しては、啓蒙哲学者たちが最高度に買いかぶった形容詞を送ると同時に、歴史家たちはこれと正反対の判定を下している。こうした対立は、複雑な性格と波乱に富んだ生涯とにだけでなく、啓蒙哲学者と歴史家がそれぞれ評価しようとしている業績の違いによるものではないのか? プーシキンもまた、これら二面をもつ反応の例となっている。かれは、エカテリーナを「スカートと王冠をつけた」と形容する一方、小説『大尉の娘』のなかで、人民の「至賢の母」としてエカテリーナの肖像を描いてみせている。
 これがエカテリーナの謎である。それは、性格の謎であり、かの女を突き動かしていたものの謎であり、かの女が残すこととになる遺産の謎である。本書の野心は、事実と史料と、あい対立する評価との迷宮のなかに、エカテリーナ二世の真の相貌を、そしてなによりも、かの女が真にロシアにもたらしたものを再発見することにある。
(志賀亮一訳)