2004年02月01日

『機』2004年2月号:擬制化された政治、民主主義を問う ――世論とそれをつくるアクターたち―― 宮島 喬

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象徴暴力を見すえた真の民主主義へ!

ブルデューが逝って
 ブルデューが逝き、早や二年、時の流れは急だ。その師の衣鉢を継ぐ(というと古臭い表現だが)研究者たちの活動も継続され、「創刊者ピエール・ブルデュー」の名を掲げる季刊誌『アクト』も健在。その研究者たちのなかで今最も指導的な位置にあるのがパトリック・シャンパーニュだろう。1989年秋、私がブルデューの許を訪ねた時、「信頼できる同僚を紹介しよう」と言って引き合わせてくれたのが、かれとA・サイヤッド(すぐれた移民の研究者だったが、今は亡い)だった。今にしてブルデューの配慮に感謝するものである。
 『世論をつくる』は1990年に刊行、衝撃を与え、大いに読まれ、シャンパーニュの名を一躍有名にした。が、かれは当時農村社会学における小農たちの階層再生産(跡継ぎ確保)戦略の分析に文化資本論を適用したパイオニア的研究で知られていたので、「なぜ、急に世論の社会学へ?」と尋ねたのを覚えているが、その経緯は本書を読むとある程度分かる。

象徴闘争となる政治
 さて、本書は、利害のために闘われる政治が、現代ではどれほど、どのような意味で象徴闘争、したがって文化資本による闘争となっているかを明らかにする。特にマス・メディアを媒介として、世論調査と、公的空間での示威行動(いわゆるデモ)がこの象徴闘争に関わっていることを具体的に、また批判的に示してくれる。メディアは日々速射砲のように、「シラクの支持率上昇」とか「フランス人の○○パーセントは不眠症」と、世論調査結果を打ち出し、紙面を飾っているが、これは世論調査機関、コメント役の記者や政治学者、部数増を目指すプレス、等々の協働のもとに行われている。また、著者のよく通じている、パリの街頭を埋めた農民たちの1982年3月のデモは、一定の政治要求をもちながら、さまざまな戦略を凝らし、メディアを巧みに利用し、世論をつくろうとしている、等々。こうして、政治が社会技術を駆使する象徴闘争の性格を強めると、独特の文化資本をもった行為者たちがこの闘争に関与してくる(ジャーナリスト、世論調査業者、それと連携して活動する政治学者など)。外見上、かれらは技術的で中立的な行為者とみえるが、その見かけを利用して操作に関与する。たとえば、1983年の与野党指導者ファビウス対シラクのテレビ討論で、シラクに軍配を上げさせたのはこの力にほかならない(一体政治討論に、ボクシングマッチのように「勝ち負け」の判定を下すことなど可能なのか、と著者は鋭く批判する)

民主主義と世論
 ブルデューは1970年代初め、世論調査の社会学的批判の先鞭を付けたが、シャンパーニュはこれを受け継ぎ、こう指摘する。設問をつくる者が実はその回答をも規定し世論をつくってしまうこと、回答者個々の意見が平等、等価のように扱われるが、物事を決定する社会集団の影響力には大きな差があることを見ず、安易な民主主義幻想をふりまく恐れがあること。世論とは、民主主義とは、というこの問いかけは、本書の議論の核心をなす。
 本書の豊かな内容は紹介しきれない。とにかくメディア、政治、社会運動に関心をもつ読者、現代的な様々な象徴を駆使した闘争に興味をいだく読者は、本書を手にとってほしい。必ず「そうだったのか」と、開眼させられるものがあるはずだ。シャンパーニュは、日本の読者に向けて、この本はもっぱらフランスの出来事を素材とした研究だが、世論調査やメディアが政治に深く入り込んでいるというその典型的な姿をみることで、きっと日本の政治、社会を捉え返す参考になるはずだ、と語っている。私もそう思う。

(みやじま・たかし/立教大学教授)