2004年02月01日

『機』2004年2月号:『地中海』から現代世界が見える 浜名優美

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▼20世紀最高の名著『地中海』の大活字・普及決定版

「大きく成長する本」
 著作そのものを読んだことがなくても名前が知られている歴史家、それがブローデルである。数年前のフランスの高等教育教授資格試験の課題図書に『地中海』が指定されて、久しぶりに若い研究者たちが『地中海』を読んだ。そんなふうにしてフランスでも繰り返し読まれている。『地中海』は日本でも同じように繰り返し読まれるべき本に入れてよいと思う。
 ここでは古典としての価値を持つ『地中海』がフェーヴルの言うように「大きく成長する本」であること、そしてブローデルの長期持続と構造の歴史の見方がいまもなお有効であることに触れておきたい。
 わたしが『ブローデル「地中海」入門』を書いたとき、『地中海』が1949年に自費出版されてから半世紀以上も経っていたのに、まだ『地中海』そのものを対象としたまとまった研究書はなかった。わたしの知る限り、ブローデルの著作と関連書を世界で最も多く出版しているのは、フランスの出版社ではなく、藤原書店である。この藤原書店から出ている本が読者から長期にわたって支持されていることに、ブローデルの偉大さを改めて認識しているところである。

数量的分析の重要性
 ところで、最近、一冊の研究書を手に入れた。著者はギリシャ人のエラート・パリス夫人。書名は『フェルナン・ブローデルの著作の知的生成――フェリペ二世時代の地中海と地中海世界』(アテネ、新ヘレニズム研究所、1999年)。ほぼわたしの著書と同じ頃にギリシャで刊行されていたのである。1999年8 月にブローデル夫人に『地中海』の成り立ちについてインタビューを行なったときに、夫人はこの著作の進行を知っていたはずだが、口にはしなかった。この著作はもっぱら『地中海』の成り立ちを中心に書かれていて、1949年の『地中海』の知的生成を対象とするこの研究の密かなねらいは、「『地中海』の二つの版(1949年の初版と1966年の第二版)のもっと深い分析」を行なうことであると述べているが、二つの版の対比的分析は行なわれていない。
 わたし自身も、二つの版で削除された項目、追加された項目が見えるかたちで、自著の最後に目次の対照表を載せたが、それ以上の考察は行なっていない。初版刊行以来の20年間にブローデルの歴史研究の方法に変化があったことを跡づけようとすれば、この比較対照は欠くことはできないはずであるが、第二版において数量的分析が増大していることは一目瞭然である。ラブルースによれば、『地中海』第二版で約20パーセント、数量的研究の成果が追加されている。
 またブローデルは、ヴェネツィアの衰退の時期を修正することをためらわない。わたしはこの研究者としてのブローデルの姿勢に強く感動を覚える。決して過去に出した自分の結論にこだわることなく、新たな研究の成果で修正すべきところが出てくれば自己の見解の修正をいとわない。まさにリュシアン・フェーヴルが「大きく成長する本である」と書評で述べたことが当てはまるように、初版から第二版へと成長したのである。

ヨーロッパの一体性
 次に、『ル・モンド』紙1983年12月13日掲載の「ヨーロッパという合衆国を再びつくらなければならない」というインタビュー記事を例に、ブローデルの思想の今日性を示してみよう。
 この記事でブローデルは「ド・ゴール将軍の最大の貢献は、ドイツとフランス両国のドアを再び開いたことである」と述べて、仏独再接近すなわちヨーロッパ経済共同体の建設の重要性に触れる。またヨーロッパのどこであれ、例えばイタリアのどこかで生活していても、そこで自分が異邦人であるという感じを持たない、つまりヨーロッパには深い一体性があるとも述べている。このことは地中海世界の一体性について述べたことに通じることである。
 また「一つ驚くべきことがある。つまりヨーロッパ世界の経済の中心地は決して文化の中心地であったことがない(中略)。人は世界を物質的に、また政治的に支配することができるが、世界を文化的に支配すること、それは別のことだ」とも言っている。ヴェネツィアが14世紀末に物質的繁栄の頂点にあったとき、フィレンツェでルネサンスの華が開き、トスカーナ語がイタリアの文学言語になる。その後、経済の中心は、アムステルダムやロンドンに移るが、文化の中心はパリであった。資本主義のグローバリゼーションやアメリカ「帝国」の支配の拡大を見るにつけ、ブローデルのこのインタビューの示唆するところは意味深い。
 2004年、まもなくEUは25ヶ国になる。これはブローデルが言っていた「ヨーロッパという合衆国」であり、「ヨーロッパの民主主義的単位」にほかならない。民衆レベルの統一体である。そして「あしたでは遅すぎる」とブローデルが20年前に言っていたことがようやく実現することになる。「フランスの使命、唯一生き残りのチャンス、それはヨーロッパをつくることだ」。これはブローデルの予見能力、歴史感覚の鋭さを示す。

『地中海』における「帝国」
 15世紀にはそれまでの都市国家に代わって「領土国家」が興隆し、外に向かって進出するようになる。スペインは「単なる国民国家ではなく、(中略)諸王国、諸国家、諸民族の連合」すなわち帝国になる。東ではオスマントルコが勢力を拡大する。16世紀、イスラム側のトルコ帝国、キリスト教側のスペイン帝国の二大勢力が地中海世界の覇権を争う時代の事情は『地中海』第2部第四章「帝国」に詳しい。そして「16世紀の地中海の悲劇とは、まず第一に政治的な成長の悲劇であり、政治が巨大化したことである」。
 いまアメリカ「帝国」が話題になっているが、私たちは『地中海』における「帝国」の記述を読み直すべきではないかと思う。「一方には召使いがありあまるほどいる貴族の家、(中略)他方には(中略)極貧の世界がある。(中略)こうした社会のなかで、生きるというのは何という絶望か!」(『地中海』第2部第五章)という言葉は、まさに現代世界の抱える問題そのものではないだろうか。

(はまな・まさみ/南山大学教授)