2003年12月01日

『機』2003年12月号:ブルデューの「政治」理論 藤本一勇

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●晩年のブルデューが残した社会運動の理論的背景とは?

自律化・独裁化する政治界
 ブルデューの「界」の理論はすでにして一種「政治」理論である。周知のように、彼が物理学の比喩を援用して描く社会的な力場としての界は、そこに所属する個人が様々な資本の力線に従って相互作用を及ぼす闘争空間である。各界は固有の論理と価値が支配するポリス的運動体、一種の「政治」体なのだ。ブルデューはそれを「ミクロコスモス」と呼ぶ。
 もちろん、この場合の「政治」はいわゆる政策や立法といった政治とは異なる。ブルデューが指摘するのは、通常の意味での政治も、政治に専従するプロ政治家たちのハビトゥスを規定する界の力学、政治界自体を駆動させる「政治力学」から無縁ではありえないという点である。それどころか一般市民の生活に係わり公共的であるはずのいわゆる政治が、狭い政治界の行為者たちの内在的な価値や論理、そしてますます閉鎖的になっていく傾向性に従って左右されているのである。さらに今日の大きな特徴として、政治界の閉鎖現象は(奇妙なことに)ジャーナリズムの介入によって一層強化されたとブルデューは分析する。
 外部を遮断し自閉症的に自律性を高めた界のあり方は、ブルデューにとって、もはや一種の市場機械である。つまり界の作法と文法を習得したエージェントたちが自己のポジションを有利にするために、界独自の価値公理系に照らして合理的に計算し、みずからが所有する政治資本の投資競争に勤しむ「市場」である。そして各エージェントは自己の利益や存在を市場からの評価に負えば負うほど、界のロジックを身体化して忠実な信奉者(あるいは反動者)となり、界の外的要因や枠組みに対する視座を失っていく。こうした受益者という名の被支配者のあり方は、完全に自律化し独裁化した市場原理主義が幅を利かす昨今の新自由主義世界を考える時、またこうした流れに対するブルデューの批判と闘いを見る時、極めて意味深長である。

ブルデューの公共性思想
 注目に値するのは、政治的表象に対するブルデューの二重の挙措である。従来はブルデューの表象論についてその批判的側面ばかりがクローズアップされてきたきらいがある。表象はそれが心的表象であれ、演劇的な上演であれ、政治的代表であれ、象徴権力に汚染された簒奪の媒体だというのである。確かに本書『政治』に収録された公演や文章においても、政治的代表委任制が必然的に孕む簒奪の契機、すなわち受任者がみずからの権威を得るおおもとの委任者を疎外し権力を簒奪する構造が鋭く抉出されている。代表委任制あるいは表象のアポリアである。となると表象を、象徴を、代表制を廃棄すべきなのか? ブルデューはそうは考えない。重要なのは介入である。つまり代理表象(代表)の自閉構造を批判的に分析した上で、代表者の自己正当性は被代表者からの承認に存することを思い起こすこと、そして代表者がこの承認に及ぼす象徴権力の暴力性を個別的・批判的に分析し、被代表者の尊重へ可能な限り連れ戻すことである。代表制の正当性の根拠を忘れて代理表象の構造的暴力に居直ったり、また代理表象を厄介払いしたりそこから逃走することは、権威主義、前衛主義、破壊主義、純粋主義、シニシズムでしかない。正当化の原理は、突き詰めれば、自己以外の場あるいは他者へと絶えず自己を開こうする努力以外にはない。これは代理表象のアポリアを嫌悪したり居直ったりせずに、真にそのアポリアを引き受けることである。ここにブルデューの公共性思想のエッセンスがあるように思われる。

(ふじもと・かずいさ/早稲田大学助教授)