2003年12月01日

『機』2003年12月号:環境問題は、なぜ「問題」か 笹澤 豊

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●環境経済学・環境倫理学をともに超える問題提起の書!

イラク戦争と環境破壊
 アメリカ地上軍がバグダッドに進攻するまでの三週間、テレビは連日、爆撃機や戦車によるイラクおよびその周辺の環境破壊のありさまを鮮烈な映像にして世界中に流し続けた。大地の大規模破壊、莫大なエネルギーの使用と、大気汚染物質・地球温暖化物質の大量排出。それだけではない。投下された劣化ウラン弾による放射能汚染の影響も懸念されている。
 それなのに、米英軍の行為を環境保護の観点から弾劾しようとする論調はいっこうに盛り上がりを見せない。この戦争に、はたして「大義」があるのか、これは石油利権獲得のための戦争ではないのか。――そういう疑念すら渦巻いているにもかかわらず、である。これはいったいどうしたことなのだろう。
 もちろん弾劾の声がまったくないわけではなく、インターネット上では、いくつかの環境保護団体がそのような主張をかかげている。しかしその声が世論を、そして国家を、動かす大きな力にならないのはなぜなのか。それが問題である。

建前から本音の議論へ
 よく考えてみれば、しかしこれは当然のことなのかもしれない。COP6(気候変動枠組条約第六回締約国会議)が開催された三年前、地球温暖化物質である二酸化炭素の、その排出削減を求める国際世論はかなりの盛り上がりを見せたが、この世論は結局、日米両政府を排出削減の方向へと動かす力にはならなかった。
 「政府が悪い、その背後で圧力をかけている産業界が悪い」と批判するのはたやすい。しかし、それだけで問題が解決するほど単純ではないのが、地球環境問題なのである。
 早い話、あなたは暑い日にエアコンをつけ、寒い日にファンヒーターやストーブをつける生活を、そうやすやすと捨てられるだろうか。二酸化炭素の排出を抑制すると産業の規模が縮小し、大量の失業者が出る恐れがある、とする予測があるとき、あなたはためらわずに厳しい規制の実施に賛成できるだろうか。
 美しくクリーンな自然環境を望む思いが、(抽象的な理想論としてはともかく)現実の政治の場では大きな力にならない。
 こういう無力の状況を作り出しているのは、実は我々個々人の内にある同種のためらいなのではないだろうか。我々は近代物質文明の受益者である反面、そのことによってその負の側面にもコミットし、環境破壊の共犯者になってしまっている。
 それを知りながら、自分だけはイノセントだと思いたがるので、我々はこと現実の問題となると、環境問題を些細なこととみなすオプティミスティックな習性を身につけるに至ったのだ。この習性は、ややもすれば環境問題そのものに対する忘却をもたらしかねない。破壊されたイラクの自然環境は「イラク復興」とともに回復するに違いない――そういう楽天的な幻想も、この習性が生み出したものと言えるだろう。
 環境問題に立ちはだかる閉塞状況を打破しようと思えば、まずはこの我々の心性をしっかりと見すえるところから始めなければならない。本書は、近代の終末を生きる我々の、そうした心性の考察をとば口にして、近代文明という、複雑にもつれあった利害と諸価値の密林に分け入り、そのもつれあいの構造を解きほぐすことをねらいとしている。建前だけの理想論をぶつのではなく、利害が錯綜する本音の空間に身をおいて考えること。それが地球環境問題の解決にむけた大きな一歩になるはずだと私は信じている。

(ささざわ・ゆたか/筑波大学教授)