2003年12月01日

『機』2003年12月号:自然の男性化/性の人工化 ――近代の「認識の危機」について―― C・v・ヴェールホフ

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●近代日のあり方を女性の視点からラディカルに批判する問題作、遂に完訳!

 すでに日本語で発表された私のいくつかの仕事に続いて、このたび本書『自然の男性化/性の人工化』がまた日本の読者のもとに届けられることになったのを大変嬉しく思います。この翻訳作業は訳者お二人にとって決して簡単なことではなかったと、そのお骨折りに心から感謝いたします。

(中略)

恐るべき速度で進む文明の危機
 本書が初めてドイツ語で出た1991年以後、世界は恐るべき「速度」で変化し、間違いなく「文明の危機」へと向かっている。世界中に拡がるネオ・リベラリズムの政治、いわゆるグローバル化はこの変化の加速に対し責任を負うものである。巨大な国際機構WTO(世界貿易機関)、世界銀行、国際通貨基金の政治と、EU(ヨーロッパ連合)、アメリカ合衆国、日本の政治とは、ここ十年の間に押し進められている変化の性格をますますあからさまにさらけ出してみせた。
 こうしてそのかんに、あらゆるところで、新しいグローバルな経済政策は一般の福祉や一般の民主化を決して進めないことが明らかになる。それどころか、ネオ・リベラリズムの政治が本来的に下から上への富の再分配にあるせいで、貧富の差はこれまでにないほどに大きな亀裂を見せている。大企業の世界はますます豊かに強力になってしまい、地球上のあらゆる国々で政治をほとんど決定している。政治は経済に対する優位を失ってしまった。あらゆるところで反民主化が始まっている。国民国家はその主権の維持を断念しはじめている。地球の最後に残された自然資源、とくに淡水と石油をめぐる闘争は戦争へとなだれ落ちてゆく。ユーゴスラビア、アフガニスタン、イラクの現状は、多くの戦争の舞台となっているその他の中央アジア、アフリカ、ラテンアメリカ諸国と同様に、大企業の利潤を目指して行われるネオ・リベラリズムの経済政策が間接的にも直接的にも戦争を誘発していることを示す。
 MAI(多国間投資協定)や、さらに最近とくにWTOのGATS(サービス貿易一般協定)〔サービス部門の業種に関する国際間の貿易協定〕のような協定がこれに加えて誘発したのは、これまで世界においてまだなかった「グローバルな社会運動」であった。これはそれ以前にはなかったほどの大がかりで、国際的、多文化的な運動であった。こうして千五百万の人間が世界中で同時にイラク戦争開始反対のデモをした。MAIは挫折し、WTOの会議は二度、1999年のシアトル、2003年のカンクン(メキシコ)で失敗した。

(中略)

今日の「認識の危機」
 私はこの12年間、理論的方法でも実際的方法でもこの展開を調べ上げようと試みてきた。その際一つのことがとくに目についた。本書の理論的アプローチとそこで示した具体例がこれまでにないほど今日的問題であり、確かにさらにひどく「尖鋭化」していることを知ったのである。それは本書の中心テーマ、テクノロジー・暴力・自然環境だけでなく、そこで見えてくる今日の時代の「認識の危機」にもあてはまる。この「認識の危機」はその間にまったく克服されず、反対に、今ではむしろ人は認識の禁止をしはじめている。

(中略)

 インスブルック大学の同僚アンネマリー・シュヴァイクホーファーとヴェルナー・エルンストと私とで編集した本『男たちの喪失/男たちの運命、支配 ― 認識 ― 生命(いのち)のかたち』(1996年)では、私たちは十二人の男女の研究者と協同して、「支配概念」を学際的方法で調査することを試みた。この調査では、私たちは、支配をつねに変わらず必要な前提とするのではなく、むしろ反生産的結果をもたらした社会的発明品とみなす少数者に属している。この調査によって支配と父系制の暴力的性格の根拠が明瞭になった。
 私の本『母親喪失/母親の運命――同化と離反とに挟まれた父系制の女たち』(一九九六年)で、私は超学際的視点からさらなる「父系制の概念」を展開させようと試みた。なぜなら、資本主義に歴史的に根ざす今日の荒廃はいかにして到来したのか、なぜその性格がそれほどにも深く父系制的なのかを理解し直すためには、まずその概念を定義し直す必要があるからである。今日の文明の危機、とくに西欧諸国における危機は、五千年から七千年にわたる父系制の歴史が同時に分析される場合にのみ捉えうる。

(中略)

 父系制は私の見るところシステムとしての支配を意味するだけではない。父系制とは、女たちと自然の諸力、生命(いのち)を創りだす自由自在に働く力を克服して、より高度でより良い発展を遂げたとおもわれるテクノロジーの人工プロジェクトにとり替えようとする、一つの「変換プロジェクト」である。このプロジェクトは父系制的妄想から発生したものであるから、失敗するに違いない。自然も女たちもテクノロジー的手段によってうち負かし、支配し、廃棄することができるというこの妄想は、それが地上の生命(いのち)に対しネガティブな結果をもたらすであろうとは考えない。
 こうして私は再び今日の「認識の危機」という課題にたち戻った。私たちの社会秩序の真の性格とその危機がこれまでにないほど明瞭に認識できる地点に私たちは今立っている。そしてまさにそれゆえに、この認識は、「認識の危機」から出発する道は、今日多くの側面からほとんどあらゆる手段によって妨害しようと試みられる。こうして「認識の危機」はその間にまさに「上から指示された」認識の崩壊へと向かう。メディアや学問による洗脳は、ルネ・デカルトに倣って「我考えず、故に我あり」と言えるところにまで至る。

(中略)


新たな「女性運動」のはじまり
 最後に「女性運動」についてもう一言。それはここ10年間でどれほど先へ進んだのだろうか? どれほどそれは、とくに自身の直面する出来事や動向を消化できたのだろうか? というのも結局女たちはテクノロジーの発展によってとくにおびやかされているから、もっとも広義においてバイオテクノロジーによって追い立てられているのは母親としての女たち自身だといえるから。また彼女たちは経済的にもとくにおびやかされている、たとえばGATSの枠組みでの民営化政策は、女たちに破局的な作用をおよぼし、いっそう多くの無償労働とよりわずかな賃金とをもたらすからである。
 二つのことが最近観察されるようになった。西欧諸国の多くの女たちは、ネオ・リベラリズムが彼女たちの成果のすべてを破壊していることを認めようとしない。彼女たちは「ポストモダニズム」と「ポストフェミニズム」に由来する「ジェンダー」イデオロギーと「ジェンダー」イデオロギーの政治にしがみついている。それらは彼女たちにとって、私たちの社会の「性の中性化」という古いおとぎ話に新しい衣装を着せたものである。なぜなら、自然の「性」はまったく存在しない、性はただ文化的考案物に過ぎない、だから再び廃棄されることもありうると、それは約束するからである。「ジェンダー政治」と「ジェンダー研究」は、性を超越したある種の平等と同権をついに作り出せるとけんめいに偽ろうとする。これがしかし実現するのは、じつは男女間の「平等」が例えば男たちの水準にまで女たちの労働条件を引き上げることにはほとんどならず、むしろ反対に男たちの労働条件を女たちの水準にまで引き下げることになる時である。これを私たちは「主婦化された(*)」という。この「平等」がジェンダー論を擁護する女たちの目指すところでなかったのは確かである。

*マリア・ミースが構築した概念。人々(とくに女性)を主婦とみなすことで、その人がおこなっている労働の価値を引き下げ、その人々の社会的地位を従属的なものへと転落させてしまうこと。

 これと並んでまた「母性の拒否」はますます重大な役割を演じている。しかし一種の「妊娠・出産スト」という形で社会秩序に対して抗議するようなことは起こらなかったし、女たちが「男性」もどきになろうとして、この社会秩序内で自己発現の可能性を向上させようとすることもなかった。だから女性運動の一部は、女たちを母性から、妊娠・出産から「解放する」方法として、遺伝子技術を歓迎する。
 啓蒙主義の伝統を受け継ぐこれらの女たちは今も昔も、自然支配とテクノロジーの進歩が、社会における女たちの低い地位の原因であるにもかかわらず、それらを信じようとする。
 他方において、「南の新しい女性運動」が存在する。私たちの本『サブシステンスと抵抗』(2003年)で明らかにしたように、他でもないグローバル化に反対する社会運動内部にさえも存在する。これらの女たちはもうテクノロジーの進歩、自然支配の暴力、「自由市場」、資本主義の父系制を信じない。反対に、彼女たちは自分たちが自然と結ばれているのに気づく。彼女たちは世界における社会運動と社会的「オルタナティヴ」の建設にとって今日的指標となる一つの「深化したフェミニズム」を自分たちが展開しているのに気づく。
 ここ北、というよりむしろ西においても、そのような「下から」の新しい女性運動が立ちあがってくるべき時が来ている。

 2003年10月2日 インスブルックにて
 (加藤耀子訳)

(Claudia von Werlhof/インスブルック大学正教授)